礼拝

ローマ人への手紙7章1節〜18節(罪のからの解放)

それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけ

だ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。夫のある女

は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法か

ら解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が

死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たち

よ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです

。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結

ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中

に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死

んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです

。それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない

。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を

捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私は

かつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、

いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めに

よって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるもので

あり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらした

のでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私

に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました

。私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて

罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをし

ているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしていると

すれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もは

や私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善

が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行するこ

とがないからです。


***人の心の中にある良心を封じ込め、操ろうとする悪霊の力に勝利することが出来るのは、光である

   神様である、ということを知ることが出来る人々は幸いです。パウロの思いを深くくみ取っていき

   ましょう。