礼拝

ローマ人への手紙6章1節〜22節(御心を知る)

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょ

う。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、そ

の死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによっ

て、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたよ

うに、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリ

ストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人が

キリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくな

るためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たち

がキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の

中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています

。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは

、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、

神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを

罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげて

はいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささ

げなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下には

なく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にある

のだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのこと

を知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であっ

て、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことに

は、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の

奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、

以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷として

ささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました

。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのもの

の行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き

着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエ

スにある永遠のいのちです。


***今日の箇所を読んで、神様の御心を深く悟っていきましょう。パウロが何を伝えたかったのか、感じなが

   ら何度も繰り返し読んでみましょう。十字架の愛が注がれてくるのを感じることができるでしょう。