礼拝

マタイの福音書26章47節〜58節(時の満ちるとき)

エスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。

剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たち

から差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口

づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。そこで彼はす

ぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に「友よ

。なんために来たのですか。」と言われた。そのとき群衆が来て、イエスに手をかけて捕

らえた。するとイエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の

しもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣

をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いし

て、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないと

でも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いて

ある聖書が、どうして実現されましょう。」そのとき、イエスは群衆に言われた。「まる

で強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは

毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しか

し、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たち

はみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。イエスをつかまえた人たちは、イエスを大

祭司カパヤのところへ連れていった。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。しか

しペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、なりゆ

きを見ようと役人たちといっしょにすわった。


***時の満ちるとき、人はどんなにあがいてもどうにもならないことがあることを、聖

   書の中に学びます。イエス様が十字架上で死ぬことは決められていたことですが、

   お弟子さんはみな逃げてしまいました。これが人間です。人は弱い生き物で無力で

   す。だからこそ、神さまのご加護の中で過ごす祝福を心から願うのです。イエス

   に更に近づきましょう。イエス様も近づいてくださいます。