礼拝

ガラテヤ人への手紙6章1節〜18節(心の種まき)

兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら。御霊の人であるあなたがたは柔和な

心でその人を正してあげなさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい

。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、

りっぱでもない自分をなにかりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているの

です。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも

、ただ自分だけの誇りで、他の人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのお

の、負うべき自分自身の重荷があるのです。みことばを教えられる人は、教える人とす

べての良いものを分け合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような

方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉の

ために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいの

ちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が

きて、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人

に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。ご覧のとうり、私は今こんな

に大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。あなたがたに割礼を強制す

る人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架

のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自

身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼をうけさせようとする

のは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私たちには、私たちの主イエス

・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架に

よって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたの

です。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは

新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に

、平安とあわれみがありますように。これからは、だれも私を煩わせないようにしてく

ださい。私はこの身に、イエスの焼印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イ

エス・キリストの恵みが、兄弟たちよ。あなたがたの霊とともにありますように。アー

メン。



***私たちから発する心の思いが言葉として流れる時、聞いている人の心に種を蒔い

   ているようなもので、感情が乗っかった言葉、愛を乗せた言葉、それぞれに蒔いた

   種は芽が出て根が張り大きくなっていくでしょう。神様の愛を乗せた言葉をたくさ

   ん発信して、多くの種を実らせていきましょう。御霊の実があふれるとき世界は変

   わります。