礼拝
ガラテヤ人への手紙3章13節〜29節(神の相続人)
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから
購い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれる。」
と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスに
よって異邦人におよぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を
受けるためなのです。兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約
でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはし
ません。ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神
は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの
子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。私の言おうとすることはこ
うです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によ
って取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
なぜなら、相続がもし、律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。
ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みをくださったのです。では、律
法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、
違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められ
たのです。仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は
唯一者です。とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことは
ありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったな
ら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を
罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、
信じる人々に与えられるためです。信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の
下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるた
めでした。こうして、律法は私たちをキリストに導くための養育係となりました。私
たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私
たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対す
る信仰によって神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあな
たがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷
も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト
・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、そ
れによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
***今日の箇所はとても力強い御言葉です。私たちは神のこどもで神の相続人であ
るということ・・・何よりありがたい言葉です。そこには大いなる自由があり
、平等があります。数多くの神を知らない人たちがこの恵みの中に導かれるこ
とを心よりお祈りしています。