礼拝

ガラテヤ人への手紙3章1節〜12節(律法と義)

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、

あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけを

あなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからで

すか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからない

のですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あ

なたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんな

ことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇跡を行

なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあな

たがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、、それが神の義とみな

されました、それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと

知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から

知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と

前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が信仰の人アブラハム

ともに、祝福を受けるのです。というのは、律法をの行ないによる人々はすべて、のろい

のもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを

堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の

前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって

生きる。」のだからです。しかし律法は「信仰による。」のではありません。「律法を行

なう者はこの律法によって生きる。」のです。


***今日のテーマは律法と義です。律法は人々のためにあるのに、人をさばく道具にし

   てしまうところがある・・・と感じています。父と母を敬いなさいーと書いてある

   から形だけそのようにふるまうのではなく、心から自然と体が動くとき、そのよう

   な行動ができるものであると思います。この者も義に生きる毎日でありたいと心か                                                     ら願っています。

   います。