礼拝

ガラテヤ人への手紙2章10節〜21節(真理のものさし)

ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら

私も大いに努めて来たところです。ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に

非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、

ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、

その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れ

て行ったからです。そしてほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行

動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、

彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケ

パにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のよう

には生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダ

ヤ人の生活を強いるのですか。私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦

人のような罪人ではありません。しかし、人は律法の行いによっては義と認められ

ず、ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを

知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行い

によってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜ

なら、律法によって認められる人は、ひとりもいないからです。しかし、もし、私

たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私自身も罪人である

ことがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対に

ありえないことです。けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てる

なら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。しかし私は、神に生きるために

、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました

。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです

。今私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった

神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし

義が律法によって得られるのだとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」


***パウロのように、キリストと共に歩む者は真理の物差しをもって、自分自身

   を見失わないようにしていきたいものです。もし、自分自身が揺れ動く心だ

   としたら、真理の物差しが正しく作動していないということになります。正

   しく作動するように心がけたいものですね。