礼拝

ガラテヤ人への手紙2章1節〜9節(人生絵図)

それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレム

に上りました。それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べ伝えて

いる福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私

が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことがむだにならないためでした

。しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられ

ませんでした。実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったので

す。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ

自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした

。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。そして、おもだった者と

見られていた人たちからは、−彼らがどれほどのひとたちであるにしても、私たちには門

題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。−そのおもだった人たちは、私に対

して、何も付け加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者へ

の福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられているこ

とを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった

方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与

えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバル

ナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところ

へ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。


***人生にはさまざまな出会いがあり、その中でも何でこんな人と出会うのか・・・と

   辛い体験をするときもあると思いますが、そのような出会いが実は一番必要であり

   、そのことが大きな成長に繋がるものです。そのような一つ一つの体験が重なり、

   人生絵図が出来上がっていくものです。どのような絵に仕上がっていくのか、そ

   こには神のわざなしでは完成へ進むことができないのです。