礼拝

ローマ人への手紙11章15節〜36節(神の御心)

もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、

死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が清ければ、粉の全体が清いのです

。根が清ければ、枝も清いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリ

―ブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに

受けているのだとしたら、あなたはその枝に対してほこってはいけません。誇ったとして

も、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折ら

れたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたはいうでしょう。そのとおりです。彼ら

不信仰によっておられ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐

れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたも惜しまれないでしょ

う。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびし

さです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみ

の中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼

らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は彼らを再びつぎ

合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、

もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につながれたのであれば、これらの栽培種

のものは、もっとたやすく自分の台木につながれるはずです。兄弟たち。私はあなたがた

に、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと

思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなにな

ったのは異邦人の完成の時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、というこ

とです。こう書かれてあるとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を

取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取

り除く時である。」彼らは福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者です

が、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変

わることがありません。ちょうどあなたがたが、かっては神に不従順であったが、今は、

彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になって

いますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを

受けるためなのです。なぜなら、神はすべての人をあわれもうとして、すべての人を不従

順のうちに閉じ込められたからです。ああ、神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いこ

とでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいこと

でしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画に

あずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いをうけるのですか。というのは

、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に

栄光がとこしえにありますように。アーメン。


   * **今日は神の御心というテーマです。神のこころというものはかり知ることが出来ない

        ほど尊くて深いものです。神の知恵と知識の富によって、すべてのことが神から

        発し、神のよって成り、神に至る・・・このことばだけですべてのことは解決

        します。なぜ、このようなことが起こるのか、どうしてこの現実なのか・・・

        と理解に苦しむ人々が多い世の中で、神の恵みの中で過ごすと同じ現状が喜び

        に変わる。多くの苦しむ人たちに神を知る喜びを伝えたいものです。