礼拝

ローマ人への手紙11章1節〜14節(神様の摂理)

すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。

この私もイスラエル人でアブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神はあら

かじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあな

たがたは、聖書がエリヤに関する箇所で言っていることを、知らないのですか。彼はイ

スラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あ

なたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしてい

ます。ところが彼に対してなんとお答えになりましたか。バアルにひざをかがめていな

い男子七千人がわたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びに

よって残された者がいます。もし、恵みによるのであれば、もはや行ないによるのでは

ありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。では、どうなるので

しょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得

しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。こう書かれているとおりです。「神は

、彼らに鈍い心と、見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデ

もこう言います。彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、

報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」では

、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことは

ありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それはイス

ラエルにねたみを起こさせるためです。もし、彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗

が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、

もたらすことでしょう。そこで異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、

自分の務めを重んじています。そして、それによってなんとか私の同国人にねたみを引き

起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。


***この世でマイナスと思えることが、実はすばらしい事に変わる信号器のようなもの

   だとやっと思えるようになりました。すべては益となる・・・のことばどうりです

   。神様の摂理を理解しようとすると奥が深いです。