礼拝
ローマ人への手紙4章1節〜13節(世界の相続人)
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが
行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そう
では、そうではありません。聖書はなんと言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた
。それが彼の義とみなされた。」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当
然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方
を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によ
って義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を許され、罪をおおわれた人たち
は、幸いである。」それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。そ
れとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰
が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでし
ょうか。割礼を受けてからでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。また割礼を受けていな
いときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割
礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受
けたのです。それは、彼が、割礼を受けない」ままで信じて義と認められるすべての人の父と
なり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私
たちの父アブラハムが無割礼のときに」持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです
。というのは、世界中の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫
に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
***私たちもこの信仰の足跡によって歩み続けるものでありたいですね。神様は世界の相続
人となるという約束を与えてくださったことはなにものにもまさる宝です。