礼拝

ローマ人の手紙4章14節〜25節(アブラハムの信仰)

もし、律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効に

なってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところは違反もありま

せん。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵

みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている

人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「

わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラ

ハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を

生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は

望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようにな

る。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブ

ラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの

胎のの死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によっ

て神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光

を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこ

そ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いて

あるのは、ただ彼のためだけでなく、また、私たちのためです。すなわち、私たちの

主、イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみな

されるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められ

るために、よみがえられたからです。


***私たちは祈りが聞かれたり、今の状況が喜ばしいものである時、神様は凄い・

・・と思い、信じることの喜びをかみ締め、進むことはできるのに、困難が続くと、

  なぜ?どうして?神はいないのか・・・と信仰はぐらつく・・・というケースが

  多いのではないでしょうか。アブラハムのように絶対不可能と思える状況にあっ

  ても信仰がゆれるどころか、そのその信仰はますます強くなって・・・とありま

  す。このアブラハムの信仰を見習っていきたいものですね。