礼拝

ekureshia2006-09-10

ヨハネ福音書6章1節〜15節(五つのパンと二匹の魚)

その後、イエスガリラヤの湖、すなわち、テペリヤの

湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエス

つき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていた

しるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子とともに

そこにすわられた。さて、ユダヤ人の祭りである過越しが

間近になっていた。イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れが

自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこから

パンを買って来て、この人々に食べさせようか。

もっともイエスは、ピリポをためしてこういわれたのであった。

エスは、ご自分では、しようとすることを知っておられた

からである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しづつ

取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。

しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

エスは言われた。「人々をすわらせなさい。その場所には

草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人

であった。そこでイエスはパンを取り、感謝をささげてから

すわっている人々に分けてやられた。また小さい魚も同じように

して、彼らにほしいだけ分けられた。そして彼らが十分食べたとき

弟子たちに言われた。「あまったパン切れを、ひとつもむだに

捨てないように集めなさい。」

彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出てきたパン切れを

人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

人々は、イエスがなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ

世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこでイエスは人々が

自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って

ただひとり、また、山に退かれた。


***この箇所から起きた奇跡の背景に、イエス様の心の動きが浮かび

   上がってくる。いつも中心は愛・・・五千人を思う心・・・が

   奇跡に繋がる・・・解散してから弟子たちとあとで食べる・・

   というのが宗教家であろう・・と思われる。しかしイエス様は

   違っていた。パンと魚は与えられた教材にすぎない。

   内容はちがっても試されるテスト・・・私たちは愛をもって

   奇跡がおこるほどの愛をもって、人と接することが出来る

   かな・・・と、つい思ってしまった。貧しい人のわずかな

   ものまで富んでいる人々が吸い上げているような、変な世の中

   で、奇跡といわれるものまで、縁遠くなってしまった・・・

   愛ある人になれますように、と祈る毎日を過ごすこの頃・・・