礼拝

ルカの福音書19章29節〜40節(正しい物差しと、曲がった物差し)


オリーブ山のふもとに近づいた時、イエス様は二人の弟子を

使いに出して言われました。(向こうの村に行きなさい、そこに

はいると、、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないで

あるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。

もし『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったらこう言いなさい

『主がお入用なのです』)

使いに出された二人が行ってみると、イエス様がお話されたとおり

でした。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が

「なぜ、ろばの子をほどくのか」と彼らに言いました

弟子たちは『主がご入用なのです』と言って、二人はろばの子を

エス様のもとに連れて来ることが出来ました

そしてろばの子の上に自分たちの上着を敷いてイエス様を

お乗せして、イエス様が進んで行かれると、人々は道に

自分たちの上着を敷いています

そしてイエス様がオリーブ山のふもとに近づかれた時

弟子たちの群れは自分たちの見たすべての、力ある

わざのことで、喜んで大声で神を賛美し始めて、こう言います

「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。

栄光はいと高き所に」

するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から

エス様に向かって「先生。お弟子さんをしかってください」

と言いました

エス様は答えます

「わたしはあなたがたに言います。この人たちが黙れば

石が叫びます」


***不思議なお話の箇所です・・・イエス様には遠くの

   場所の情景もすべてわかるのですね。二人のお弟子さん

   はびっくりの心と喜びの心だったでしょうね・・・

   ろばの子を持ってきなさいというイエス様の言葉で

   二人のお弟子さんがその場所に向かうのだけれど

   勇気がいったことと思います。今の時代から見ると

   犯罪行為になるから・・・主がご入用なのです

   と言いなさい・・・という言葉に行くわけですが

   本当に神が造られたすべてのものですから

   ひとりひとりがこの与えられた恵みに感謝できる

   人々や、そんな時代では、自分のもの・・と固守しないで

   分かち合う精神があったのでしょう

   この時代でもすでに、そんな人たちだけでなく

   パリサイ人のように、自分の物差しで人を判断し

   当てはめようとする人たちがいました

   神様の恵みに感謝がいっぱい、喜びがいっぱいの

   人たちが神に向かって賛美している、その様子さえも

   うるさい・・としか思わない人たちがいて・・・

   曲がった物差しでは人を正しく判断することが出来ない

   まず、いつも自分の物差しが正しいかどうかを

   いつもチェックすることが大切だと私は思います

   時々自分の物差しが大幅にずれていることに

   気がつくときの苦しみはあるけれど、知らずに

   ずれっぱなしでいることのほうが怖いので

   この苦しみも感謝です・・・

   この時代の正しい物差しを持っている人たちの目には

   イエス様が神の子であることを察することが出来た

   のでしょうね・・・ろばの子の上に自分たちの上着

   脱いで敷き、イエス様が通る道端にまた上着を敷く

   この行為は曲がった物差しの人では考えられないことですよね

   この日記をよんでくださっているすべての方に

   有難う・・・を言いたいです・・・そしてこの自分の中の

   物差しを見つめながらお互いに進んでいけたらいいですね