ekureshia2005-12-11


ルカの福音書13章1節〜17節(輝くみわざ)

ある人たちが、イエス様のところに来て

「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人のささげる

いけにえに混ぜた(虐殺された)このような

災難を受けた」と報告をしますが

『そのガリラヤ人たちがそのような災難をうけたから

ほかのガリラヤ人よりも罪深い人たちだと思うのですか

そうではありません

あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます・・・』

またたとえで、イチジクの木のお話をされます

『ある人がぶどう園にイチジクの木を植えておいたが

 何年たっても実らないので、切り倒してしまいなさい

 といいますが、番人はもう少し待ってください、今年1年

 そのままにしてやってください、木の回りを掘って

 肥やしをやってみますから、それで来年美を結べばよし

 それでもだめなら来年切り落としてください』

またイエス様が安息日に、ある会堂で教えておられた時

18年も病の霊につかれ、腰が曲がってぜんぜん伸ばすこと

のできないおんなの人がいて、イエス様はその人を

呼び寄せて、あなたの病気は癒されました、といって

手を置かれるとたちどころに腰が伸びて神をあがめます

すると、会堂管理者はイエス様が安息日に癒されたのを

憤って群衆に言います(働いていいのは6日です、その間に

来て直いてもらいなさい、安息日にはいけないのです)

エス様は彼に答えて言われます

『偽善者たち、あなたがたは安息日に牛やろばを小屋から

ほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか・・・』

こう話されると、反対していた者たちは恥じ入り

群衆はみな、イエス様のなさったすべての

輝かしい御業を喜んだ。




***人は自分に対して甘く、人に対して厳しいという

     ものさしを持っていて、それが罪というとげになり

     災いや争いになるのではないだろうか

     愛あるものには、忍耐がうまれ、寛容がうまれ

     神の働き人になっていくのだと・・・思う

     イチジクの木も人のたとえで、

     どんな人でも、寛容な心で愛を持って接するとき

     その人の上に神の業が顕れるのですよ・・・