思い出の旅

ekureshia2005-10-17

思い出の旅

小学校の時水泳の飛び込みが苦手だったし
跳び箱も苦手、勉強は嫌い、音楽が苦手、走るのが苦手
と何一つとりえがなかった私が大きくかわることができたのは
中学のときの先生や友達の影響かもしれない
勉強の面白さ、スポーツのすばらしさ、音楽の魅力を理解すること
が出来たのも、この時期からかもしれない
中学、高校のこの短い期間が私にとってのなくてはならない
貴重な土台となる時間であったことを、長い年月を経た今
改めて痛感する。
このすばらしい7年間があったから、以後のさまざまな
想像を超える試練をも、のりこえることが出来たのだと思う
本当に、さまざまなことがあった、
特に経済苦の波は、結婚して数年で襲ってきて以来、
ず〜と気が休まることがないほど、続いた
経済の大変な中に長男(龍一)が生まれた時、
主人のお世話になっている人に用立てたお金が戻ってこない
今日、病院を退院しないといけないのに、
お金は戻ってこない、どうなってしまうのか
あせった、夕方まで帰れなくて、辛い思いをしたのを
思い出す、幸い夕方お金は戻ってきたので
やっと、病院を出ることが出来たが・・・
そのうち、主人の勤めていた仕事先が倒産してしまった
何ヶ月分も、給料が送れた上に、倒産で、しかも、
その会社と身内関係で、個人的にお金も貸してて、
それも戻らない、経営者はどこにいったか
わからなくなってしまった、
また新たな仕事を探して、再就職をするが
お酒すきが影響してか、急性肝炎で主人が入院してしまった
2ヶ月ぐらいの間は収入の道が閉ざされる
このとき、こどもは二人、長女(泉)がまだ保育園に通う頃で
主人のおばあちゃんと、子供二人との5人暮らし・・・
退院すれば、またいつもの生活に戻れるからと
一生懸命、生活に追われながらも、ぜったいに
負けないって言い聞かせて、一つ一つ、乗り越えていった
その当時の家は2DKのアパートで、5人が住むには狭くなった
かな、と思っていた矢先、借りていたアパートの大家さんの
会社が倒産し、大家さんは居所がわからなくなってしまった
そんなとき、同じアパートの3階に住んでいる人のところに
強盗が入って警察は来るし、もうこんな所は引っ越そう
ということになって、新しいアパートを探すけど、
なかなか、いいところがない・・
そのうち、どうせ高い家賃を払うなら、マイホームを
購入しませんか・・・の誘いにあっさりと乗って
大分バスの不動産部が進める家を購入し、
そこに移り住むのだが、これからがローン地獄
このとき主人が新たに勤務したところの給料がよかったので
思い切ってはみたものの、この後、数年で主人の腰が動かなくなって
ヘルニアということだったが、骨自体も60歳ぐらいの骨で、
重たい物を持つ仕事は無理です・・と医者から言われたとき
またもや、その会社を辞めて、良くなるまで家にいるという
生活で3ヶ月ぐらいの間、また収入のない生活が始まり
今思ってもぞ〜とするぐらい過酷な経済苦の旅は続いた
このとき、子供は3人目が2歳位になっていた
昼は保険の会社に勤めて、夕方からも
仕事をして、何とか頑張らないと、と自分に言い聞かせて
きたが・・あまりの大変さに、実家の母が何度か経済の
応援をしてくれて、乗り越えることができた
年老いた母に苦労をかけることの辛さに、やるせない気持ちで
いっぱいになった、(母ちゃん、いつか親孝行するけんね)
心に言い聞かせてきたのに
その母が1999年2月17日に他界した
その日の夕方、主人から電話で、(実家のばあちゃんが
倒れたっち連絡があったけん、すぐ病院にいくぞ〜)
私はあわてて主人と病院に駆けつけた
向かう車の中で、(いよいよ親孝行するときが来たね
今まで苦労をかけた分、いっぱい親孝行させてもらわんとね)
そう言いながら病院について病院に着いて
事務室の人に病室を訪ねたら、気の毒そうにあの〜
霊安室のほうに・・・・と言われ、一瞬に血の気が引いて
ショックで、パニックになった、
おそるおそる、霊安室にいくと安らかな母の顔があった
まるで眠っているようだった、微笑むような顔だった
後で聞いた話だが、その当日も元気よくカラオケを歌っていた
そうで、病院の先生がびっくりしておられて、信じられない様子
だった、母の幼い頃決してむくわれた人生とはいえない苦労を
してきて、やっと老後幸せになってもらいたくて、これからという
時に、(そんなに早くいかんでもいいやん)私の心にぽっかりと
穴があいてしまった・・・
おばあちゃんも、父も他界し、そして母までも・・・
あと、私には弟だけになってしまった
この後しばらく無気力状態が続く・・・・