思い出日記

思いつくままに・・・まず私の母は旧姓橋本で、母の家族はみんな

お金持ちで、母だけが貧乏の父のもとに嫁いで、身内から相手にされなく

なって、随分辛い思いをしたそうです、母はミチノという名前ですが

生まれたとき、近所のおじさんがおれが届けに行ってあげる

と言ってくれて、頼んだものの途中で名前を忘れてしまい

本当はヨシノとつけるはずだったのに、ミチノと登録されていたそうな・・・

そうとは知らず、ヨシノ、ヨシノと呼ばれて本人もヨシノと思っていたのに

それがちがってたと分かったのは生まれてから3年も経ってからだった

と聞いています、しかも母は幼くてお母さんと死別し、高倉という

身内(こどもがいない家)に引き取られていきます、幼いながらも

育ての親を実の親のように慕いながら、自分は高倉ヨシノと思い込んで

いたそうです、ところが小学校入学の日、はじめてのクラスで、出席を取る

時、先生が、橋本ミチノさん、と呼ぶけど返事をしない??

先生が橋本ミチノさん、名前を呼ばれたら返事をしましょうね・・・と言われて

私は橋本ミチノと違う、高倉ヨシノや〜って言ってワンワン泣いたそうです

幼い頃、内容は違っても、私と母ってどこか似ているような気がします

母が小学校に入学をしてからまもなく、高倉家に子どもが出来て

母はその子をおんぶして、学校に通ったと聞いています

6年たって、卒業の時が来て、もうこの頃になったら分別もつく頃

だから、大丈夫だろうと卒業証書に書く名前を、実名橋本ミチノと

呼ぶので、返事をするように説得されて、このときも母はへそを曲げて

しまったようです、心から高倉家の家族になりたかったのだと思います

本当の父親はお酒のみで、どうしようもない人なので、

見るに見かねた高倉家が、母を引き取って育ててくれたようです

しかも母の実の父親は母が就職をすると同時ぐらいに再婚し、新しい

戸籍上の母が現れます、母ミチノの人生も面白いな〜とつくづく思います

母には名前が二つ、よっちゃんと呼ばれ、職場仲間からはみっちゃんと呼ばれ

しかも母には母親が3人も・・・産みの母、育ての母、戸籍上の母

幼い頃から苦労の連続の母なのに、結婚してからも苦労の連続だった母

押さないながらに覚えているのは、お酒をのんで暴力を振るう父の姿でした

母はよくたえていたなあ〜と思います、おさけを飲まない時の父は

別人のように優しいのに・・・母が殴られる姿を幼心に目の当たりにして

泣きながら、父ちゃんやめてよ、母ちゃんをいじめんでよ〜と父親に

向かっていったりしたのを思い出します。昼間は外でわたしがいじめられ

夜は家で母に暴力を振るう父の姿をみる毎日、幼い頃は本当に地獄のような

日々でした、お酒を飲まない時の父は神社の宮番をしていただけあって   

     面倒身がよくって、人のお世話を

よくしていたようです、それだけに180度変わるその極端さに、そのお酒を

憎みました、この父親がお酒を飲まない人だったら、どんなに幸せだろう

と子供心に何度思ったことか分かりません・・・

私の家のおじいちゃんの親の時代は中津藩

の武士だったそうです、おじいちゃんの時代も、下竹田

というところの大きな家に住んでいたそうですが

大火事で丸焼けになり、無一文になって今の大分に

移り住んだと聞いています、神社も宮番をすることで

わずかのお給料を県か、市からいただいていたそうに

きいてますが、はっきりとは覚えていません

だから、生活はかなり辛かったと思います

色の黒い子はいらんぞ〜といっていたおじいちゃん

は私が生まれるちょっと前に亡くなりました

神社の中の左端のほうに私の家はあって

本当に狭い狭い家で6畳と2畳の二つだったようです

そこに父と母、おばあちゃん、私という暮らしでしたが

おばあちゃんはおじいちゃん以上にプライドが高く

わがままなおばあちゃんで、おばあちゃんの身内が

遊びに来ても、けんかになって、『頑固ばあさんやな〜

かわいい年寄りにならんと、』と言われていました

そんなおばあちゃんといっしょの生活で、母も苦労が

多かったようです、けんかも時々してましたし・・・

昼間は父も母も家にいなくて、生活のために

働き詰めのようでした、当時鉄くず拾いや土運び?

お金になることはなんでもして、生計を立てていたようです

幼い私を、近所の加藤さんというおばちゃんが

よく面倒を見てくれて、父や母の代わりによく

遊園地に連れて行ってくれました

いじめという辛い毎日の中で、このおばちゃんが

いたから、救われていたのだと、今でも感謝しています

家のすぐ隣が畑で、父はよく畑を耕していました

昔は肥やしを肥料にしてましたが、肥やしのたるを

担いでいた父の姿を思い出します

そんな苦しい経済の生活に、拍車をかけたように

おばあちゃんが倒れて、寝たきりの生活になります

父と母は、おばあちゃんの看病と生活を守るために

必死でした、母に悪態をついていたおばあちゃんも

母に感謝するようになりました

私が小学校2年の頃です,転校して間もない時の運動会で

走るのが遅いと知っているのに、わざとリレーのアンカー

に私を決めてしまっていやだと言う私の意見も聞かずに

仕組まれてしまいます、案の定私の恐れていたとおりに

なって、大恥をかいてしまう結果に・・・

私の前の人まで、一位を走っていて私に代わったとたん

どんどん抜かれてしまってびりになってしまって・・・

このときほど、悔しかったことはなかったです

そのあと、家に帰ってから毎日、毎日走る練習をしました

いつか人に笑われない自分になろうと言い聞かせて・・・

歌も音痴で、笑われていました、放課後、学校の帰り

大分川のところで,なんども歌の練習もしました

何とか人並みに歌えるようになりたいって思いました

その私が今では歌の大好きな私の変身できてる

ことが不思議です。

東京オリンピックの女子バレーの優勝の場面は

強烈に私の脳裏に焼きつきました、

中学生の頃のバレー部での練習の毎日は

楽しくてたまりません、ボール拾いが楽しくて

楽しくて、先輩が一生懸命にやる私をかわいがってくれて

小学校までの辛い生活がうそのように

学校に行くのが嬉しくて、嬉しくてたまらなかったです

また勉強が嫌いな私を変えるきっかけを作ってくれた

数学の坂本先生にはとても恩義を感じています

この頃から、人との出会いについて深く考えるように

なりました、そして生まれてから死ぬまでの間に、出来るだけ

たくさんのいい人と出会いたいと思うようになっていました

3年生の時の主任の先生も面白い先生で、ある真夏の日

あまりにも暑くて、授業に実が入らないと判断した先生は

始まってまだ10分も経っていないのに、お〜い今日の授業

はこれで終わり・・みんな教科書をしまって山にいくぞ〜

ですって・・・中学校のすぐ裏に山があってその展望台

からしたの景色を見下ろしながら、好きな歌を歌ったり

大きな声を出したり、思い切り好きなことをしていいぞ〜

なんとも不思議な先生だった、あるときカンニングをする

生徒に、叱るのではなく、お〜い、お前下手やなあ

カンニング、見つからんようにやるのがカンニング

や、今度おれが上手な方法教えてやろうか 

笑いながら、みんなの前で言われたからたまらない

その後、このクラスにカンニングするものはいなくなった

その当時をなつかしく思い出します、今こんな先生が

いたら、逆に父兄が問題発言だとか言って、大変かも

この時代は本当にいい先生に恵まれました

真剣になって高校を進めてくださったのも、この先生ですし

バレー部の顧問の先生、監督の先生もよくしていただいた

なあ〜と当時を振り返ると、なつかしい思い出ばかりです

バレーの練習や試合を人生にたとえて、取り組んでいました

たとえば、アタックは人生の試練、レシーブはそれに挑戦

すること、そう思いながら練習していたので、強烈なアタック

ほど、どんなことがあってもレシーブで受け止めるんだ〜

との思いで練習していたので、自分の可能性に挑戦できて

このときほど充実した時を感じたことはないです

高校に行ってからも、定時制の高校で昼働いて、

夜学んで、9時過ぎからのバレーの練習なんで

体がくたくたになりながらも、それでも練習に

明け暮れる毎日を過ごして、ある時の試合の

途中でアタックでジャンプした際、足をくねらせて

しまって激痛が走りながら、1セットを取られてしまって

メンバーチエンジし、ベンチにて応急処置をして

もらっている間に、点をどんどん取られていく

あわてて、痛い足のことも忘れて再びコートに

戻った私は、どんなことがあっても絶対勝つんだ

って、言い聞かせて、みんなを励まし、戦ったのも

なつかしい思い出です、神経を集中すれば

凄い力が出るものだということを体験しました

私がサーブをすると、凄い変化球になって

相手チームが取れなくて、1点、1点と追い上げて

3セット目も、競り合いの末優勝しました、

時々痛みが走り、足を引きずりながら必死で

頑張る私にみんなも、真剣になってみんなの心が

ひとつになった瞬間でした。表彰式が終わってほっとした瞬間

に忘れていた激痛が襲ってきて、あわてて病院に

行きましたら、なんと、足にひびが入っていて3週間ぐらい

よくなるまでかかりました、

高校時代も楽しかった思い出のほうが多くて

お友達もたくさん出来ましたが、大学進学に

向かって準備をしていた矢先に父がが他界したときは

ショックでした、父の仕事は神社の宮番の仕事で、

わずかな給料をもらっていたと母から聞かされていました

おじいちゃんはプライドの高い人で、先祖は元中津藩の武士

の家系だったとかで、父もプライドだけは高かったけど

一生で報われないままに、この世で何ひとつたのしいことが

ないままに、終わってしまいました、倒れてから1ヶ月

母と私は交互に父の看病をしました、その当時母は病院

の掃除婦をしてましたので、その母の勤務している病院

で父を入院させてもらって、昼間は私が看病し、夜は

母が次の朝まで看病する,といった生活が始まりました

父の看病でくたくたになりながら、夕方家に帰り、夕飯の

したくをするという、したことのないことばかりの慣れない

毎日を体験し、母が毎日どれだけ大変な思いで

私たちを育ててくれたのか、その母の苦労がやっと

わかりました、ある朝、なんとか助かってほしいという

願いもむなしく、父は他界しました