礼拝
イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。 それは、
「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イ
ザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言
ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目
で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」イザヤがこう言
ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。しかし、それにもかかわ
らず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白は
しなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからで
ある。また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信
じるのですまた、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。
わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞い
てそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を
救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものが
あります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。わたしは、自分から話したので
はありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、
父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
***聖書の中のことばは時の流れに添って顕されています。神さまのことばも、時に理解しがたいことば
もありますが、昔も今も、時の流れに添って繋がっているのです。なぜ、人々の心を盲目に、頑なに
したのか、いっしょに考えてみましょう。