礼拝

ヨハネ福音書7章25節〜53節(分裂)

そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。 見なさい。この人は公然と語っているの

に、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。 けれども、私たちはこの人

がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」イエスは、宮

で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しか

し、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知

っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」そこで人々はイエスを捕らえようとした

が、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった、イエスの時が、まだ来ていなかったからである。 群集のうちの多くの者がイエスを信

じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか。」 パリサイ人は、群集がイエスについて

このようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。

そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。

あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ

人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散

している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。」『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わた

しのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」 さて、祭りの終わりの大いな

る日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っ

ているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊の

ことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。このことばを聞いて

、群集のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、またある者は、「この方はキリストだ」と言った。またある者は

言った。「まさかキリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖

書が言っているではないか。」 そこで、群集の間にイエスのことで分裂が起こった。 その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、

エスに手をかけた者はなかった。それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの

人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」 するとパリサイ人が答え

た。「おまえたちも惑わされているのか。 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群

集は、のろわれている。」 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその

人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。。」彼らは答えて言った。「あなたもガ

リラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」〔そして人々はそれぞれ家に帰った。


***心の中にこだわり、憎しみ、怒り、がある時は正しい真理の道を進むことはできません。分裂というテーマですが、イエス様に対して、

   憎しみがある人が、分裂の原因になっているのです。