礼拝

ヨハネの第一の手紙3章1節〜12節(神と悪魔)

私たちが神の子どもと呼ばれるためにー事実、いま私たちは神の子どもです。−御父はどんなにすばらしい

愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは御父を知らないからです。愛する者たち。私

たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら

、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのま

まの姿を見るからです。キリストに対するこの望みを抱く者はみな、キリストが清くあられるように、自分を

清くします。罪を犯しているような者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです

。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪

もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも

、キリストをみていないし、しってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。儀を

行なう者は、キリストが正しくあられるのとおなじように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た

者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです

。誰でも神から生まれた者は罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているから

です。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神のこども

と悪魔の子どもとの区別がはっきりします。儀を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟

を愛さない者もそうです。互いに愛しあうべきであるということは、あなtががたが初めから聞いている教え

です。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺した

のでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。


***この世の中は神に、導かれて生活する人と、知らずに悪魔に操られて苦しい人生を歩んでいる人に分か

   れます。私たちの内側にある神さまの種に、光の水と霊の糧を与えて、信仰の実を豊かに実らせましょ

   う。信仰の実が豊かになればなるほど、神様の祝福を感じる喜びも増すからです。