礼拝

ガラテヤ人への手紙4章18節〜31節(神の思い)

良いことで熱心に慕われるのは、いつであってもよいものです。それは私があなたがたと

いっしょにいる時だけではありません。私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリスト

が形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今

あなたがたといっしょにいることができたら、こんな語調でなく話せたらと思います。あ

なたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。律法の下にいたいと思う人たち

は、私に答えてください。あなたがたは律法のいうことを聞かないのですか。そこにはア

ブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、

と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれ

たのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山

から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルはアラビヤに

あるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら彼女はそのこどもたちと

ともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。す

なわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産

みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもどもは、夫のある女の産む子

どもよりも多い。」兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、

かって肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのと

おりです。しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷

の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわ

けで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。


***聖書は神の霊感によって書かれたもので魂を救う力があるーと書かれてあります。こ

   の箇所ではパウロと通して語られていますが、パウロの思いを超えて神の思いを、パ

   ウロによって語られたと思います。救われた私たちが神の祝福から離れていくことに

   神様の私たちに対する思いが語られているのだと・・・・痛感します。神に喜んでい

   ただける毎日を過ごしたいものですね。私たちは神によって自由の身ですから。