礼拝

コリントへの第一の手紙12章27節〜13章13節(愛という宝もの)

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして

、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち第一に使徒、次に預

言者、次に教師、それから奇跡を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助け

る者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが預言者

しょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇跡を行なう者でしょうか。みながいや

しの賜物を持っているのでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明

かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。ま

た私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

13 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかま

しいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持って

おり、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な

信仰を持っていても、愛がないなら、なんの値打ちもありません。また、たとい私

が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるため

に渡しても、愛がなければ、なんの役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切

です。また人をねたみません。愛は自慢せず、傲慢になりません。礼儀に反するこ

とをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真

理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え

偲びます。愛は決して耐えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異

言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは私たちの知っているところ

は一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不

完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子ども

として考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことを

やめました、今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔

とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、

私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういう

わけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは

愛です。


***毎日神様に触れて生活していると、この信仰と希望と愛が自然と生まれてきま

   す。なかでも愛という宝ものは一番すぐれていて、神様に近づいていなければ

   この愛が生まれることはありません。いつも喜び、たえず祈り、すべてのこと

   に感謝する、このことが出来る人がまさに神様がともにおられる愛の人です。

   愛という宝ものがいただけるように日々精進していきましょう。