礼拝

ローマ人への手紙5章9節〜21節(恵みと義の賜物)

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒り

から救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神

と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる

のはなおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてく

ださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり

、こうして死が全人類に広がったのと同様にーそれというのも全人類が罪を犯したからで

す。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は

、なんらかの律法がなければ、認められないものです。ところが死はアダムからモーセ

での間もアダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダム

はきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反の場合とはちがう点があります。も

しひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとり

の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ちあふれるのです。また、賜

物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、ひとつの

違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは多くの違反が義と認められるから

です。もし、ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれ

ばなおさらのこと、恵みと義の賜物とえを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス

キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反

によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が

義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの不従順によっ

て多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるの

です。律法がはいってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わると

ころには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、

私たちの主、イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させ

るためなのです。


***今の世の中は罪だらけと言っていいほど、毎日のニュースで殺人や汚職、天災等の

   ことが流れています。以前には考えられなかったことが日常茶飯事起きているので

   す。いよいよ、神様の恵みのときが近づいたのだと思われます。祈りにも更に拍車

   がかかる日々ですが働き人を与えてくださいと切に祈ります。