礼拝

ekureshia2007-02-11

ヨハネ福音書13章20節〜38節(新しい戒め)

まことに、まことに、あなたがたにつげます。わたしの遣わす者を

受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は

わたしを遣わした方を受け入れるのです。」イエスはこれらのことを

話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりがわたしを

裏切ります。」弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して

、互いに顔を見合わせていた。弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が

エスの右側で席に着いていた。そこでシモンペテロが彼に合図をして言った。

「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」その弟子は、イエス

右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」

エスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」

それからイエスはパン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダに

お与えになった。彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。

そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐ

しなさい。」席に着いている者で、イエスが何のためにそういわれたのか知っている

者は、だれもいなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に「祭りの

ために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しを

するように言われたのだとか思った者も中にはいた。ユダは、出て行ったとき、

エスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって

栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば

、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかもただちにお与えに

なります。こどもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。

あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは

来ることが出来ない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも

言うのです。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛しあい

なさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し

会いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが

わたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」シモン・ペテロがイエス

言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く

所に、あなたは今はついて来ることが出来ません。しかし後にはついてきます。」

ペテロはイエスに言った。「主よ、。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。

あなたのためにはいのちを捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのち

をも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに、あなたに告げます。

鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。


***イエス様がお弟子さんたちに語った「互いに愛し合いなさい。」という言葉に、どれだけ

   大きくて広くて深い愛が乗っかっているだろうと・・・つい思ってしまう。今から去って

   いくイエス様が弟子たちのことを考えると、身が切り裂かれるぐらい辛いことだったで

   あろうと・・・本当に聖書は不思議なもので表面にある文章ではなく奥にある真理が浮か

   び上がってくる・・・裏切っていくユダに対しての思いも、弟子たちへの思いも、伝わって

   来るようだ。ぜひ、私たち、今を生きる者も、お互いを認め合い、愛し合って、生活を
 
   していきたいものである。時代はますます下降線の状態、心はますます砂漠化している

   今、この状態を救うのは、愛しかない・・・と私は思う。