礼拝

ekureshia2007-01-28

ヨハネ福音書12章34節〜50節(導かれる言葉)

そこで群衆はイエスに答えた。「私たちは律法で、キリストはいつまでも

生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子はあげられなければ

ならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

エスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。

やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。

やみの中を歩く者は、自分がどこにいくのかわかりません。あなたがたに光がある

間に、光のこどもとなるために、光を信じなさい。」

エスは、これらのことをお話になると、立ち去って、彼らから身を隠された。

エスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らは

エスを信じなかった。それは「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。

また主の御腕はだれに現されましたか。」と言った預言者イザヤのことばが

成就するためであった。彼らが信じることが出来なかったのは、イザヤがまた

次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの

心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、改心し、そして

わたしが彼らをいやす、ということがないためである。」

イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして

言ったのである。しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエス

信じる者がたくさんいた。ただパリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。

会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を

愛したからである。またイエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、

わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は

、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。

わたしを信じる者が、だれも病みの中にとどまることのないためです。

だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人を

さばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために

来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人を

さばくものがあります。わたしの話したことばが、終わりの日にその人をさばく

のです。わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父御自身

が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の

命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話している

ことは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。


***言葉とは字のごとく、事の葉っぱ、言いことばも、悪いことばも、風に乗って

   ひゅう、ひゅう、と、飛んでいく。聖書は神様が語ったことばを預言者

   受けて、預言者たちによって書かれた書物です。私たちの住んでいる地球に

   悪い言葉が飛び交い、風に舞って広がっています。神様の導いてくれた聖書

   の言葉をたくさん、たくさん、語って神の言葉で満たしたいものですね。

   永遠のいのちにいたる神のことばで地球上を充満することができたら・・・

   今日の私の独り言でした。