礼拝

ekureshia2006-12-17

ヨハネ福音書10章22節〜42節(心の目と心の耳)

そのころ、エルサレムで、宮清めの祭りがあった。時は冬であった。

エスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。それでユダヤ人たちは

エスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。

もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」イエスは彼らに

答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。

わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、

あなたがたは信じません。それはあなたがたがわたしの羊に属していないからです。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また彼らはわたしを知っています。そして

彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは

決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことは

ありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。

だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

エスは彼らに答えられた。「わたしは父から出た多くの良いわざを、あなたがたに

示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのでは

ありません。冒瀆のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

エスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。あなたがたは

神っである。』と書いているではありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と

呼んだとすれば、聖書は破棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』

とわたが言ったからと言って、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して

世に遣わした者について、『神を冒瀆している。』と言うのですか。もしわたしが、

わたしの父のわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし

行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。

それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知る

ためです。」それで彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの

手からのがれられた。そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めに

バプテスマを授けていたところに行かれ、そこに滞在された。多くの人々がイエス

ところに来た。彼らは「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方

について話したことはみな真実であった。」と言った。

そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。


***今日のテーマは心の目と心の耳です。わたしたちは日常目が見えることで、歩くこと、

   食べること、行動することがたやすくできます。しかし心の目は表面に見える

   ことではなくて、空間の目に見えないものに対し、その動きをつかむことが

   できるとき、人と自分の繋がりの真実が見えたり、真理が見えたりするものです

   心の目、心の耳を開けたいものですね。