礼拝

ekureshia2006-12-03

ヨハネ福音書9章24節〜41節(傲慢という罪)

そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。

「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であること

を知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、

私は知りません。ただひとつのことだけ知っています。

私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。

どのようにしてその目をあけたのか。」

彼は答えた。「もうお話したのですが、あなたがたは聞いて

くれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。

あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは

彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし

私たちはモーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話になった

ことは知っている。しかし、あの者については、どこから来た

のか知らないのだ。」彼は答えて言った。「これは驚きました。

あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないという。

しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人のいう

ことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころ

を行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは

知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは

、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられる

のでなかったら、なにもできないはずです。」彼らは答えて言った。

「おまえは、全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」

そして彼をそとに追い出した。イエスは彼らが彼を追放したことを聞き、

彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を

信じることができますように。」イエスは彼に言われた。

「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。

それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため

です。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて

、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。

しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える。』と言っています。

あなたがたの罪は残るのです。


***パリサイ人たち(この世で尊敬されていた人々)は盲目の人に対して

   お前という言い方をしていることから、すでに傲慢な態度で上から

   ものをいう人たちであるなあ〜目が見えるようになったのを、喜んで

   あげる心はないものだろうか・・・と・・この傲慢の心が神様を見えなく

   しているのだろうなあ〜と思います。このような心があると神様の光が

   届かない。私たちは見える、わかる、と過信しているところに傲慢という

   罪が残るのだと、この箇所から教えられます。私たちも周りの人たちと

   接する時、傲慢な心になることがないよう、心がけたいものです。