礼拝

ekureshia2006-11-26

ヨハネ福音書9章1節〜23節(光と闇)

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に

生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。

その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、

両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければ

なりません。だれも働くことのできない夜がきます。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

エスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を

作られた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で

洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、

帰って行った。近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを

見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」

他の人は「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。

ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は「私がその人です。」

と言った。そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのように

してあいたのですか。」彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、

私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。

それで、行って洗うと、見えるようになりました。」また彼らは彼に言った。

「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。

彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。

ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。

こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるように

なったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、

私が洗いました。私はいま見えるのです。」

すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。

安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。

「罪人である者に、どうして、このようなしるしを行なうことができよう。」

そして彼らの間に分裂が起こった。そこで彼らはもう一度、盲人に言った。

「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。 」

彼は言った。「あの方は預言者です。」しかしユダヤ人たちは、目が見える

ようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったと

いうことを信せず、ついにその両親を呼び出して、尋ねて言った。

「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが

言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」

それで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき

盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは

知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。

あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で

話すでしょう。彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。

すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、

その者を会堂から追放すると決めていたからである。

そのために彼の両親は「あれはもう大人です。あれに聞いてください。」

と言ったのである。



***人の心に闇と光があり、疑いや恨み、憎しみの心に闇が生まれ、光を

   憎む、寄せ付けない状況を作るのだと思います。生まれつき盲目の人が

   見えるようになったことを喜ぶことができない・・・闇の心には

   イエス様の言葉 も理解できないし、今の世も同じことが言える、                                                                          イエス様を信じての行く道には、いつも私たちを信じてくれる 

   人たちと、そうでない人たちとの分裂がいつも起こるのは光の力と

   闇の力の現われであると感じる、が・・闇は光に勝つことはできない 

   と私は感じています。光の中で辛い思いをされている多くの方へ

   メッセージを送ります。神様は必ずあなたを見ています。見放すこと
   
   は絶対にありません。信じて待ちましょうね。