礼拝

ekureshia2006-10-22

ヨハネ福音書7章25節〜53節(生ける水の川)

そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は彼らが

殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と

語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは

、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか

けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。

しかしキリストが来られるとき、それがどこからか知っている

者はだれもいないのだ。」

エスは宮で教えておられるとき、大声を上げて言われた。

「あなたがたはわたしを知っており、またわたしがどこから来た

かも知っています。しかしわたしは自分で来たのではありません。

わたしを遣わした方は真実です。あなたがたはその方を知らない

のです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしは

その方からでたのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかしイエスに手を

かけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったから

である。群集のうちの多くの者が、イエスを信じて言った。

「キリストがこられても、この方がしているよりも多くのしるし

を行なわれるだろうか。」

パリサイ人は群集がイエスについてひそひそ話しをしているのを

耳にした。そこで祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえよう

として、役人たちを遣わした。そこでイエスは言われた。

「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて

それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたは

わたしを捜すが、見つからないでしょう。またわたしがいる所に

、あなたがたは来ることが出来ません。」

そこでユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからない

という。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。

まさかギリシャ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたは

わたしを捜すが見つからない。』また『わたしのいる所にあなた

がたは来ることが出来ない。』とあの人が言ったことばは、

どういう意味だろうか。」

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で

言われた。「だれでも渇いているならわたしのもとに来て飲み

なさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その

人の心の奥底から、行ける水の川が流れ出るようになる。」

これはイエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを

言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので

御霊はまだ注がれていなかったからである。このことばを聞いて、

群集のうちのある者は、「あの人は確かに預言者なのだ。」と

言いまたある者は「この人はキリストだ。」と言った。またある者は

言った「まさかキリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストは

ダビデの子孫から、またベツレヘムの村から出る、と聖書が言って

いるではないか。」そこで群集の間にイエスのことで分裂が起こった。

その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手を

かけた者はなかった。それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに                                                                      帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」

役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかってありません。」

するとパリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とか

パリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが律法を

知らないこの群集は、呪われている。」彼らのうちのひとりで、イエス

もとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。

私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人がなにをしているのか

知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤから預言者は起こらない。」

〔そして人々はそれぞれ家に帰った。〕



***心の物差しが曲がっている時、神の子のイエス様をも、悪人に思って

   しまう。恐ろしいことですね。心の物差しが正しくあり続けるために

   神が与える命の水を飲み続けて、心の奥底から生ける水の川が流れ出る

   ようになりたいものですね。