礼拝

ekureshia2006-10-15

ヨハネ福音書7章1節〜24節(正しいさばき)

その後、イエスガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちが

エスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかった

からである。さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

そこで、イエスの兄弟達はイエスに向かって言った。「あなたの弟子

たちも あなたがしているわざを見ることができるように、ここを去って

ユダヤに行きなさい。。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた

所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、

自分を世に現しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし

あなたがたの時はいつでも来ているのです。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。

わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。

あなたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。

わたしの時がまだ満ちていないからです。」

こう言って、イエスガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに

上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこに折られるのか。」

と言って、イエスを捜していた。そしてイエスについて、いろいろ

ひそひそ話しがされていた。「良い人だ。」という者もあり、「違う。

群集を惑わしているのだ。」という者もいた。しかし、ユダヤ人たちを

恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。しかし

祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、

どうして学問があるのか。」そこでイエスは彼らに答えて言われた。

「わたしの教えは、わたしの者ではなく、わたしを遣わした方のものです。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが

神から出たものか、わたしが自分から語っているかがわかります。

自分から語る者は自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の

栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに

あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを

殺そうとするのですか。」群集は答えた。「あなたは悪霊につかれています。

だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

エスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。

それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに

割礼を与えました。−−−ただしそれはモーセから始まったのではなく、

先祖たちからです。−−−それであなたがたは安息日にも人に割礼を

施しています。もし人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも

割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからと

いって、なんでわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人を

さばかないで、正しいさばきをしなさい。


***人間は目に見えるものに動かされやすいものですが、目に見えない

   神の恵みのなかで正しい判断をしながら進みたいものですね。

   私たち人間が先祖から伝えられた良き知恵の多くも、心の中に

   ねたみ、嫉妬、憎悪、良くない思いが生じる時、その知恵袋も

   穢れて、正しい判断をできなくなってしまうのでは・・・と

   私は思います。