礼拝

ekureshia2006-07-16

ヨハネ福音書3章1節〜21節(光)

さてパリサイ人の中にニコデモという人がいた。

ユダヤ人の指導者であった。この人が夜、イエス

もとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが

神のもとから来られた教師であることを知っています。

神がともにおられるのでなければ、、あなたがなさる

このようなしるしは、だれも行うことができません。」

エスは答えて言われた。(まことに、まことに、あなたに

告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ること

はできません。)ニコデモは言った。「人は老年になって

いて、どのようにして生まれることができるのですか。

もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

エスは答えられた。(まことに、まことに、あなたに

告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国

に入ることができません。肉によって生まれたものは肉です。

御霊によって生まれたものは霊です。あなたがたは新しく

生まれなければならない、とわたしが言ったことを

不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、

あなたがたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ

行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、

そのとおりです。)

ニコデモは答えて言った。「どうしてそのようなことが

ありうるのでしょう。」

エスは答えて言われた。(あなたはイスラエルの教師で

ありながら、こういうことがわからないのですか。まことに

まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っている

ことを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは

わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが

地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを

話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者は

いません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければ

なりません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を

持つためです。」

神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を

持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためで

はなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じるものはさばかれない。信じないも者は神のひとり子の

御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきという

のは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を

愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は

光を憎み、その行いが明るみに出ることを恐れて、光のほうに来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあって

なされたことが明らかにされるためである。


***3年前に不思議な水に出会った。以来飲み続けて多くの奇跡を

   見てきた。心が変わっていく、喜びと感謝に日々に変えられる

   こんなに早いスピードで効果をもたらすこの水は、一体何者・・・

   と、ますます興味が増すこの頃、なんとこの水に光が出ている

   ことがわかった。ある物理の専門家が一種の生命体といっても

   過言ではない。と言った。しかもこの水は何年もかかって

   やっと完成したという日、光の物体(天女に見えた)を見た

   という。プラチナの微粒子の水の中で、光輝く水・・・

   専門家は金属の微粒子から光が出るということはありえないはず・・・

   と口々に言う。わたしがこの水に出会う前に、天から不思議な

   天使の歌声といえるほどのきれいな透き通る歌が聞こえてきて

   思わず、聞きほれていた。この水をあなたに贈りますよ・・

   というサインだったかもしれない。そして3年間多くの奇跡を

   見ることが出来た。今更にわかったことは闇を愛する人のところ

   にいくと、その人が豹変し形相が変わる。まさに光を憎む人たち

   なんだな・・・と再確認させられる。なんとも、なんとも

   不思議な水です。水と御霊によって生まれなければ神の国の国

   に入ることはできない・・と聖書に書いてあるが水の中に

   生命体とも思われる光・・・水と光・・・なにか深い意味が

   あるように思えてならない。