礼拝
それから3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこに
招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって、
「ぶどう酒がありません」と言った。するとイエスは母に言われた。
(あなたはわたしと何の関係があるでしょう。女の方、わたしの
ときはまだ来ていません)
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、なんでも
してあげてください。」
さてそこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ
八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。(水がめに水を満たしなさい。)
彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。(さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役の
ところに持って行きなさい。)彼らはもって行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それが
どこから来たのか、知らなかったので、−しかし水をくんだ手伝いの
者たちは知っていた。−彼は花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに
良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いものを
出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤで行い、ご自分の栄光を
現された。それで弟子たちはイエスを信じた。
***
カナの婚礼の箇所はいつ拝読しても、同じことを思ってしまうが
母マリアの言葉は全ての先をまるで、わかったように語っている
ところが、味わい深い・・・イエス様がわたしの時はまだ来ていません
と言った言葉をあたかも聞いていなかったかのように、手伝いの人たちに
この方の言われることは、なんでもしてあげてください・・・
と言うその空間がユニークで、しかもお手伝いの人たちも
イエス様が語ったとおりを、何の疑いも持たずに、水を運んでいる
ところが凄い。母マリアの言葉が後押しとなったことも、その行動と
なったと言えるのではないかと思うが、その文章の表には見えない
奥の深いものが浮かび上がってくるような気がしてならない。
マリアはただイエスにこの奇跡を起こさせたくて、あのような言葉を
言ったのではなく、この大事な婚礼に何らかの手違いがあって
ぶどう酒が足らなくなってしまった。招待した人たちに不快感をあたえては
いけない、どうしたらいいか、切羽詰っての祈りにも似た気持ちが
奇跡という事実を生んだのではないかと・・・万事急須と言う時であれば
イエス様がわたしの時はまだ来ていません、と言った言葉にさからうかのように
この方の言われることはなんでもしてあげてください・・・という語りも
うなずける。わたし達の日常もこのように、ねばって諦めない信仰を
持つように心がけたいものである・・・