自叙伝(定期的の回転版)

命の流れ1(醜いアヒルの子)






私が、母のお腹の中にいる時のこと

私のおじいちゃんが、いきなり母に、生まれてくる子

がおんなの子だったら、色の黒い子はいらんぞ〜って

いった。私はお腹の中で悲しくなってしまった

私はいらん子?、わたしは生まれん方がいいのかな?

一日、一日と、生まれる日が近づいていく

日々不安、、、生まれてからおじいちゃんに

嫌われるくらいなら、生まれたくないよ、しかし時間は

進んでいく。こんな色の黒い子が生まれたら、母が、おじいちゃんに

いやみを言われて辛いかも、、、お母さんごめんね・・・

とうとう、この世に誕生する瞬間が来てしまった。

こうして1952年4月11日

生まれつき色の黒い、醜いアヒルの子のような私が誕生し                                                         試練の人生のスタートが始まったのである  






命の流れ2(貧乏と言う逆境の中で)

私の、命の誕生の舞台となったのは、とある神社の境内の中

願いどうり、母を悲しませることなく、安産で生まれた

しかし、おじいちゃんの言葉に反して,色の真っ黒な私が生まれ

毎日が、苦悩の日々の連続であった

家は貧乏で、しかも母の体調も悪く、母乳が出ない

ミルクを買うお金もない。そんな中で母は、お米の研ぎ汁に                                                       砂糖を混ぜて、ミルク代わりに飲ませてくれていたが

栄養面が足りないせいか、すぐ熱を出しては母を

困らせていた。病院にかかるお金もない中で、母の苦労は想像を

絶するものがあったであろう。そんな私が物心付いた頃、

いじめという、地獄のような日々に遭遇し、わずか4,5歳にして

私は生きるということの、辛さと悲しさとを、いやというほど味わうことになる

近所のいじめっ子たちが、私を見て黒んぼ、黒んぼ、といっては、近寄ってくる

つぎはぎの服をみては、汚い服と笑われる。

そんな毎日がいやで、次第に私は、人をさけるようになっていく

当然友達もいない、近所の子供たちが、楽しそうに遊んでいるのを                                                    影から、一人でさびしく眺めながら、辛い幼少時代が続いた。






命の流れ3(いじめと言う辛さの中で見つけたもの)





そんな幼少時代の中で、いじめられ、からかわれながら、ふっと

思った。人はなぜ人を攻撃し、なぜ、いじめたり、嫌がらせをしたり

して喜ぶのだろう、私は、あんな人間にはぜったいならないって、自分に

言い聞かせてきた、誰とも友達になれない、」私の寂しさはどう表現しよう

と、言い表すことの出来ないほど辛かった。ある日、いつも私をいじめ

からかう連中が、いつもと違うやさしい顔でやってきて、一緒に遊ぼう

と言ってくれた。うれしかった。信じられないくらいうれしかった。

とっさに「うん、あそぼう」と答えて、一緒に仲間に加わった                                                      かくれんぼをするという、私に鬼を、と、目隠しをされた。

鬼さんこちら、の声のほうに歩いていたら、用意してあった

落とし穴に落ちてしまって、服が泥だらけになってしまった。

そのぶざまな姿を見ては、(や〜い、だまされた)と言って

みんなから笑われた、くやしくて、悲しくて、涙もあふれて

私なんか、生まれてこなければよかったと、この時ほど強く思った

ことはない、山に登ってワンワン泣いた。心が張り裂けそうに

なるくらい泣いた。その時、瞬間に光が全身を包むような感じ

とともに声がした。(泣くんじゃない、泣くんじゃない、お前は

神の子)・・・不思議だった。心の辛さが一瞬で平安に変わったのを

体験した。やがてそんな私も、小学校入学へと時代は過ぎて

この時住み慣れた狭い我が家から、少しだけ広い家へと移り変わっていく。

弟が生まれて家、が狭くなったということで、市営住宅に申し込んで

いたのが当たったらしい。チャンスだ、私はこの引越しに期待した。

もう、いじめっ子からいじめられることもない、新しい学校で

お友達が出来るかも知れない。その期待感を胸に新しい住所へと

引っ越していった。 





命のながれ4(えこひいきと、人間不信)




私が引越しをしたのが、小学校2年になったと同時の4月

新しい学校で、いじめのない学校生活を期待して、初めての

登校日、一緒のクラスに、校長先生の子供が手洗い場で割り込んで

きた。私はとっさにその子をダメ、、と手で押した。

それを見ていた先生が私を叱った。割り込んだその子をなぜ

注意しなくて、私を叱るのかが分からなかった。

あとで、何度も同じようなことが重なって

なるほど、その子が校長先生の子供だからなんだ。

つまり、えこひいきということだ、きたない

あんな大人にはなりたくない・・・

新しい学校でも、友達と言える人のないまま、2年生を終えた

3年生になって、途中で転校生一人が、わたしたちのクラスに

入ってきた。その子はやさしい子で、この私にも優しく接してくれた。

私はそのことがとてもうれしくて、その子と友達になりたい

とひそかに思っていた。この頃やっと学校にいくのが

楽しくなってきた矢先

とんでもない出来事が、私の目の前に起こった。

信頼していたその子が、クラスの連中に取り囲まれて

お前、あんなくろんぼと友達か?

って質問されていた。

(あんな子と友達な訳ないじゃん

かわいそうやけん、友達のふりしてるだけ)

ショックだった。あの子だけは違うと思っていたのに

もうだれも信じられなくなった。

こんな小学校時代も終わりに近づいた頃

東京オリンピックで女子バレーの優勝の場面に

凄い衝撃を覚えた。

こんな世界があったなんて、私は中学生になったら

絶対バレー部に入ろう、そしたら自分が

変われるかも知れない

心の底からわきおこる、この思いを抱いて

小学校の卒業式をむかえた。





命の流れ5(中学時代の宝物)





中学入学の朝、私は祈るような気持ちで学校へと向かう

今度こそお友達が出来るように、と祈った

新しいクラスのみんなは、どの人も初めてで

やさしそうに見えてほっとした

なによりうれしかったのは、念願のバレー部に入れたこと

楽しかった、勉強が嫌いな私はこの部活だけが

唯一の時間で、毎日があっという間に過ぎていく・・・

2年生になったある日、数学の先生が私にこう言った

(君は本気を出せば必ず出来る子なんだけどな〜

数学の面白さを知ったら、バリバリやれる子なんだけどな〜)

先生にあんなふうに言ってもらえたのは、生まれて初めてだった

うれしかった、この時から魔法にかかったように

数学の大好きな私へと変身し、苦手だった勉強も克服できていく

バレー部でもエースアタッカーとして活躍し

楽しい中学生活を満喫していた

3年生になって、進路を決めないといけない時がきて

わたしは悩んだ、高校に行きたい、だけど

我が家の経済では、とても高校にいける余裕はなかったのである

わたしは家を助けるために、中学を卒業したら

就職しようと決心し、主任の先生に相談した。

この時先生の、心ある助言で

夜間高校があることを知り、その高校を受験することになる

中学卒業の日、この楽しかった3年間の思い出が

脳裏に浮かんできて、やさしく接してくださった

先生やお友達に心で有難う、と繰り返しながら

涙が止まらなかった。




命の流れ6(定時生高校・激流の中で)





初めての高校生活、昼働き夜、学ぶ、という

慣れない日々に戸惑いながらも

充実した毎日が過ぎていった

いろんな事情を抱えている子が多く

心の優しさが光っていた

それでも仕事と、勉強を両立する、ということは

とても大変で、一人、二人とやめていく

辛いから、励ましあって、助け合って

本当の友達になれたのに

そんな友がやめていくのはたまらない

説得する私に、(優等生の綾ちゃんにわたしの気持ちはわからん)

となげやりな言葉が返ってきた

私は試験の用紙を白紙で出した

お友達の心を開くためだったら、勉強もすててもいい

そう思った、4年の進路を決める時期がきた時

人数は三分の一にまで減って、寂しさは増していった

私は、父の果たせなかった大学卒業を、父の代わりに

果たしたくて、大学進学の道を選んだ

入学金を納め、下宿先を決めて、さあこれから、という時

私の父が他界した、目の前が真っ暗になった 

                                               私が母を、弟を、助けないと・・・

心に強く言い聞かせていた

私たちの卒業を待って、結婚式をするという主任の先生に

父の死を告げることが出来ず・・・

(先生、大学、行く気、せんなったけん、やめるけん)

という私に、(いい加減な気持ちで受験するな)

と叱った、(先生、ごめんね、)と心で繰り返し、誤った

辛い時、苦しい時、励ましあった、仲間や、先生方との

別れ、父との死別、さまざまな思いで迎えた卒業式で

涙は湧き出て止まらず、顔はぐしゃぐしゃになった




命の流れ7(白血病の友)

大学進学を断念し、母と弟を助けるために働く道を

自ら選んだ私は、ただ夢中で働いた

父を失った悲しさを、忙しさで紛らす

そんな毎日が続いたある日、高校時代の友が入院した

病名は急性白血病、卒業とほぼ同時くらいに結婚し

幸福の真っただ中と思われていた彼女がなぜ・・・・・

毎日のように、お見舞いに行ったけれど

病状はしだいに悪化していった

苦しい、苦しい、私の手をにぎっては訴えてくる

どうしてあげることも出来ない、とうとう最後の時がきた

おなかはパンパンに腫れて、体中むらさき色になって

呼吸も苦しくなって、ついに息を引き取った

毎日、体をさすってあげることぐらいしか

私には出来なかった、人間の無力さをいやというほど

知らされた瞬間だった、ごめんね、久美ちゃん

助けてあげることが出来なくて、ごめんね

気が狂ったように泣いた、涙が枯れるまで泣いた






命の流れ8(はじめての見合い)

父を失ってからの母の口癖は、私に対する結婚願望の言葉であった

父は仕事面で、ず〜と恵まれなくて、経済の苦労が続いたためか、

私に、結婚相手は手に職を持つ職人さんがいい

私を早く安心させておくれ、なにかにつけ、この言葉を連発する母

私は当時、独身を貫く会の会長よ、などとまわりに語っていたほど

結婚なんてとんでもない、という思いでいっぱいだった

幼い頃から父と母の苦労をず〜と見てきて

結婚=地獄っていうようなイメージがあったのである

父は普段はいい人なのだが、酒を飲むと人が変わって

母に暴力を振るう父、毎日がうんざりだった

だが今は、この母を悲しませる訳にはいかない

偶然にも見合い話が降ってきた、以前仕事先でお世話になった方より

声をかけてきてくださった、相手は職人さんで佐官職

母の願いどうりの話が舞い込んで、とりあえず会ってみることにした

この日の出会いが、私を結婚へと運んでいったのである






命の流れ9(結婚=はてな?)



母のの期待に答えるように、佐官職である今の主人と結婚し

毎日が幸せな日々のはずであったが・・・

ある日、主人が、突然急性肝炎で入院した

2ヶ月間の入院生活は、我が家の経済を大きく脅かした

日給月給のため、休んでいる間はお金が入らない

やっと退院し、仕事も順調にいきかけて、また

大きい経済苦の波がやってきた

今度は主人の腰に激痛が走り、ヘルニアと診断される

しばらくは仕事は無理と言われ、またまた収入の道は

閉ざされる、この時すでに子供は二人、三人目がおなかの中に宿っていた

これも試練と受け止めながら、決して負けない

必ず、必ず先では良くなる・・・そう言い聞かせながらも

お金のない惨めさは、表現できないほどの辛さに変わっていく

ある時は電気が止まり、またある時はガスが止まったこともある

なぜ?どうして?結婚てなに?はてなマークが私の頭でぐるぐる回って

悔し涙が止め処もなく、流れていく日々が続き

当然のごとく、夫婦喧嘩も絶えなかった

ある日の喧嘩で主人が暴力を振い、勢いで私はタンスに頭をぶっつけられて

もう、だめだ、いっしょには暮らせない

離婚しかない、私の頭は、はてなマークでいっぱいになった




命の流れ10(この私がクリスチャン?)



今から17年前の2月7日

あるクリスチャンの友が私に、素敵な教会があるのでいってみない?

と誘ってくれた。そこの牧師のお話がとっても面白くって

ためになるお話をしてくださるのよ・・・・と言う言葉につい

返事をしてしまった、あなただったらきっとすばらしい

クリスチャンになると思うよ・・という友に

ごめん、はなしは聞きに行くけど

私は日本の神様を信じてるけん、クリスチャンには

ならんよ・・・そう言いながら

生まれて初めての教会に、心はどきどきしながら行った

慣れないふんいきに、戸惑いながらも、不思議な感覚が

私を快くさせていた、牧師の、ある一言が私の耳を捉えた

心に悩みを持っておられる方は、このイエス様に祈ってみてください

必ず、あなたの祈りに答えてくださいます、と言っていた

言葉が印象的で、私は思わず、友達のお父さんのことを

夢中でお祈りした、その人は脊髄の癌で、助かる見込みのない

といわれる中で、想像を絶する痛みの毎日が2ヶ月も続き

殺せ〜とわめく毎日、何度、母が首に手を置きかけたか、わからない

と聞かされていた、(その方を助けてください、無理なら

この生き地獄から救ってください)そう祈った

その次の日、なんと痛みもなく安らかな顔で

両手を胸に組んで、息を引き取った、と聞かされ

全身に光が走ったような衝撃を覚えた、私は

神様の御力を知った、と同時に次の週の2月14日

導かれるままに洗礼を受け、神の子としての新しいスタートが始まった





命の流れ11(経済苦という絶望の中で)




年老いた主人の母と、3人の子どもたちの6人家族での生活は

決して楽ではない、なんとかこのような苦しい日々から

抜け出したくて、信仰の世界(キリスト教)へと

向かったのかもしれない・・・

しかし、経済の壁はさらに私たち家族に厚く、のしかかってくる

ある、真夏の暑い日、ついに水道まで止まってしまった

仕事から帰って見ると、子供が、お母さん水が出ないよ、という

そう、水道局が工事をしてたのかもしれないね

明日は、大丈夫だよ、きっと

精一杯の笑顔を振りまいて、子供たちには悟られないよう

演技をしながらも、追い詰められた状況に

どうしていいかわからず、途方にくれた

夜遅く公園の水を汲みに行って

夜空を眺めながら、涙が止まらなかった

財布の中もからっぽ状態、もう何もかも疲れてしまって

もう、生きていくのは無理、限界、いっそのこと家族の命を

全部とってくれたらいいのに・・・・

火事とか、交通事故とかで、命が亡くなったら、楽になれるのに・・・

揺れる心で夜空を眺めながら、もう、たまらなくなって

思い切り大きな声で泣いた、神様に向かって文句を言った

神様、私がなにをしましたか?なぜこのような苦しみが

続くのですか?私はなんにも悪いことはしていないのに

なぜこのような目にあわないといけないのですか?

全身の力を振り絞って震えながら、大声で叫んで言った

涙とともに、絶叫する私を慰めるかのように

温かい声がした、包み込むような声だった

それはね、あなたが、どんな人の苦しみも悲しみも

わかる人になるためだよ・・・・

幼い頃に聞こえたなつかしい声・・・夜空なのに光が

私の心の中に差し込んだ、次の日なんにも事情を知らないはずの

クリスチャンの友がやってきて、私に封筒を差し出すではないか

間違っていたらごめん、今あなたが困っていたら

これを役立ててほしい、神様に導かれて来ました

そう言って去っていった友・・・

中に10万円も入っていた、封筒を握り締めたまま

感謝の涙でいっぱいになった、神様は私を見捨てなかった

この時私は誓った、私は神様に助けていただいた命だから

人助けの道を歩ませていただこう・・・

この時から人の幸せのために祈る、という

祈りをささげる日々の毎日が始まったのであった

                       

命のながれ12(癌が消えた?)



癌が消えた、後、数日の命といわれた人が助かった

歩けない人が歩けるようになった

難聴が治った、高血圧が下がった・・・・

このようなことは別世界の、テレビの中での出来事・・・

今までは、そう思っていた

ところが私の周りに、頻繁に起こるこのような出来事に

戸惑いを感じながらも、現実に起こる数々の奇跡に

それは感動と喜びの日々となっていった

友人のご主人が癌であと2ヶ月の命と聞かされた時

私はたまらなくなって、奇跡が起こるといわれる

韓国の祈祷院へと向かった

周りの者から、行った事ある?韓国語わかるの?

いろいろ聞かれた、もちろん行ったことないし

韓国語も矢からない、みんなあきれていた

とにかく、行くしかないと思った

飛行機に飛び乗ると、なんと隣の席に座った女性が

同じ祈祷院に行く人だった、おかげで迷わず行けた

神様が、助け人を用意してくれたのだと思った

着いた祈祷院で、真剣に祈った

なん日も、なん日も祈った

韓国から帰ってから私が変わったような気がしてならない

私の体が私であって、私でないような

不思議な感覚、神様がともにいてくれる

そんな毎日がはじまり、奇跡が私の前で起こるようになった

癌が消えたときは、病院の先生も喜んで

病院が発行している新聞の、記事に載せたいと語っていた

頼まれて、集中治療室に何度いったことかわからない

ここ数日の命といわれた人たちに奇跡が起こる

私は、こんなに人に喜んでもらえる毎日を

過ごすことが出来るなんて、夢のようだった

幼少時代、生まれてこなければよかったと

思えるほど、辛かった日々がうそのように

今は人との出会いが楽しくて

人に喜んでもらえることが、私の幸せとなっている

もっと多くの苦しんで折られる方たちのために

役に立てる者でありたい、そんな思いで

日々の新しい出会いに、今日も感謝しつつ

祈りの毎日を過ごす、今日この頃・・・・・




命の流れ13(痴呆症の家族と・・・)

主人の母が痴呆症になった時、いちばん下の子は

まだ二歳、郵便物がなくなる、財布がない

なべを焦がす、初めてのことばかりで

戸惑うこともしばしば、このままでは仕事も無理・・・

子供を保育園に預けて、仕事を見つけないと

経済苦を乗り越えることが出来ない

そう思って、職探しをしていた私だが

その道も塞がれてしまった

オムツを、覚えず、はずしてしまい

布団、じゅうたんを何度、取り替えたことか・・・

ある日、市の職員が用事で、我が家にこられた時

あまりの凄さに驚いて、奥さん、おばあちゃんを

施設に相談して、預かってもらったらどうですか

といってくださった。私は出来るだけ、母の希望を

最優先してあげたかったので、何とか頑張ってきたけれど

もう、限界かな〜と思っていた矢先、ありがたい助言だった

市役所の方が、教えてくださった保養院に、早速

入所できて、私も仕事をしながら、保養院に顔を出す

という日々が始まったが、家で介護していた時と

比べると、はるかに精神面が楽だった

おまけに母は、私と愛称がいい

今から十年前に、この世を去るまで

母は、私の名前だけは忘れなかった

主人は、俺の名前も思い出せないのに、まいったな

と日々、苦笑いしていた

この痴呆症の母を、介護することが出来て

最後まで、心の交流が出来て、本当に良かった

いつもにっこり、笑顔で、天使のような顔で

この世の、卒業式を迎えた

心の中で、その母のために、イメージの卒業証書を手渡した

母はにっこり、ほほえんで、その卒業証書を

受け取ってくれたような気がして

私の心は、感謝の涙でいっぱい・・・

お母さん、長い間おつかれ様でした




命の流れ14(キリスト教大友宗麟大友能直



1993年10月13日、この日私にとって一生を大きく変える導きの

出来事が起こった、空からの光とともに、声がした

大自然のすべてがあなたの味方

神の恩恵を受けた、すべてのものが、あなたを守る

あなたはそれを、体で、心で、思うままに感じるがいい

たとえあなたが、どんなに苦しいときであっても

悲しい時であっても、それはすぐに喜びに変わるであろう・・・

そのあと、主の花嫁、主の花嫁・・・と

断片的な言葉が、繰り返し語られた

教会と言う意味があるらしい(主の花嫁)

なぜ、この断片的な言葉がわたしに語られるのか

意味がわからないまま、数年が過ぎ

末期癌の方を助けたくて、韓国の祈祷院に行った時

はっきりと、その意味を知らされた

わたしの羊を牧しなさい・・・とのみ声を聞いた

私が教会の牧師なんて・・・とんでもないことだ

私は出来ない、今のは間違いがったに違いない

ところが、半年が過ぎた時

とうとうその道しか残っていない

状況に追い込まれて、やっと決心し、1997年1月1日

教会のスタートとなった

教会名はなんと付ければいいのか、祈ってみた

光のエクレシアと語られた

どういう意味か調べてみたら、呼び集められたもの

と言う意味だった、神様が呼び集めてくださる

のだったら、やっていける、そう思ってのスタートだった

それにしても、人生はわからないものだとつくづく思う

幼い頃、生きていたくない、死にたい

と思っていた、泣き虫だった私が

まさか牧師になるなんて・・・

しかも、私が生まれたのが神社の中で

そこに祭られている関係の人に、大友能直という人物がいる

大友宗麟の先祖で、平安時代に活躍した人のようだ

この時代、多くの人が疫病で苦しんでいたとき

大友能直が、癒しをもって多くの人を助けた・・・とある

今私は同じように、病気で苦しむ方のために

走り回っている、なんだか、とっても不思議

さらに驚いたことは、大友能直が生前住んでいた番地

に今、偶然私が住んでいる、めぐりめぐって、と言う言葉

があるが、今、私がこの世に生まれてきたことの意味

を、悟ることが出来たような気がする

生きていて本当によかったと、心の底からわきあがる                                                          喜びをだれかに伝えたい、その思いが

自叙伝の希望へと繋がっていったのである                  




命のながれ15(弟の突然死から学んだもの)





ある真夏の日、私の愛する一人暮らしの弟が、突然死

しかも、死後10日という悲惨な現状が私の 脳裏に深く                                                        大やけどを負った痛みのように、焼きついて離れない。

その場の現状から、経済苦のストレスが死に結びついたのでは

ないかと思われる、さまざまな督促状の山、、、。

なぜ、もっと早く気が付いてやれなかったのか

何度も、何度も、自分を責めて眠れない夜が続く。

もうどうあがいても、弟は戻ってこない

そんな時、弟と同じくらいの年で、やはり経済苦で

苦しむ青年がいた、元仕事でお世話になったその青年は

いつも明るく、紳士で好青年、電話にて元気な声を

聞くたびに、こんな人が私の弟であったら、、。

いつしかこの青年と親しくさせていただくうちに

弟を失った悲しみをいやせるような気がして

その青年に感情輸入している自分に気づく

その青年は想像を絶する経済苦の中で

一生懸命戦っていた、人の何倍も働いているのに

このかべは高く、厚く、どうすることも出来ない

この青年のSOSに、弟と重なって私の出来る限りの

ことをして助けたいという思いでいっぱいになった

私の仕事を手伝ってもらうことでわずかだけれど

給料という形でその青年に応援することが出来た。

弟の二の舞になってほしくない、

その思いでいっぱいだった。だが、我が家の経済も

決して楽ではない状態、ともすれば電話が止まったり

ガスが止まったり、子供の授業料が何ヶ月も遅れて

必死で経済苦と戦う現状の中、青年に10万の援助は

半端な気持ちでは出来ない、、、。

ある夜夢を見た、夢の中でその青年がビルから落ちそうに

なり、私はとっさに手をつかんで引き上げようとする

でも私の手に激痛が走り、手の力が抜けそうになる

このままでは青年が落ちてしまう、激痛で気絶しそうに

なりながら、神様、助けて、私に力を下さいと祈っていた。

夢から覚めた次の日、思ってもいないお金が与えられて

我が家の経済苦の波を乗り越える事が出来た。

今ではその青年も新しいパートナーと共に

新しい仕事も見つかり、その道に向かって走り出した。

私はその青年の架け橋になれたらそれでいい

わが愛する心の弟よ、これからの人生に幸多かれと

祈る。又先で困ることがあったら、その時は

心の姉が助けてあげよう。

私は出会う一人一人に希望の光を投げかけて

あげられる、心の温かい人でありたい。

今はまだ、弟の死のショックによる後遺症で

うつ病に近い症状に、悩ませられる日々もあるけど

いつか、この病気からも開放されて

タンポポの花のように、たくさんの人に

光を届ける、希望の花に私はなりたい




命の流れ16(記憶障害と言う試練・・)



弟を突然死で失ってから、来月でちょうど一年になるが

最近、私の体に大きな変化があり、それが私を悩ませている

極度の記憶障害・・・いつも出会う仕事仲間の名前すら

思い出せなくて、あせりまくる自分がいる

先日も仕事で集まった、リーダ会議の四人とも

名前が思い出せない状態・・・やはり病院で見てもらったほうがいいのかな?

私も弟のように、突然の死を向かえるのではないかな?

いろんな不安が頭をよぎった

人間はいつ、どうなるかわからないものだ

出来るうちに、出来ることをしておこう、と思う

私の記憶がある間に、自叙伝を完成させたいし

そんな思いが日々、強くなってきた

私の脳のコンピユーターが、壊れないうちに

五十三年間に培ったすべてを、かたちに著しておきたいな

自叙伝のタイトルは、地球学校の仲間たち・・・がいいな

人間は何のために生まれて、なんのために生きるのか

その答えとなるものを、見出したような気がする

命の流れ17を最終編として、そのことの答えをなるものを

書いていきたい、それにしてもこのブログをはじめてから

三ヶ月が過ぎて、訪問者が荷千五百人を超えた

見てくださる方々がいる、ということが

凄い励みになっている・・・

訪問してくださったすべての方に、ありがとう・・・

の思いを伝えたい、日頃忙しすぎて

こちらからの訪問が、なかなか出来ないこと

申し訳なく思うが・・・