礼拝

ルカの福音書9章18節〜36節 (十字架と光)

エス様が一人で祈っておられた時、そこにいた弟子達に

(群衆はわたしのことを誰だと言っていますか?

あなたがたはわたしを誰だと言いますか)

と質問します、群衆は、バプテスマのヨハネ

と言う人もあり、エリヤだという人や

昔の預言者の一人が生き返った、とさまざまな言葉が返ってきます

弟子のペテロは、神のキリストです、と答えます

するとイエス様は、このことを誰にもはなさないようにと命じます

そして言われます(人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長

律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければ

なりません)

『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々

自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい

自分の命を救おうと思うものは、それを失いわたしのために

自分の命を失うものは、それを救うのです

人はたとい全世界を手に入れても自分自身を失い

損じたら、何の得がありましょう・・・・・』

これらの教えがあって8日目に、イエス様はペテロとヨハネ

ヤコブだけを連れて、祈るために山に登られました

祈っておられると、御顔の様子が変わり

御衣は白く、光り輝きました、しかも二人の人がイエス様と話し合っています

それは、モーセーとエリヤでした、ペテロたちがこの場面をみていた

とき、雲がわき起こり、人々を覆い彼らは雲に包まれ

雲の中から 『これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である

彼の言うことを聞きなさい 』と言う声が聞こえて

そこにいるのはイエス様だけになっていました

弟子たちはあまりの不思議さに驚いて、沈黙を守り

自分たちの見たことを誰にも話しませんでした


***イエス様が語られたことばが印象的です
    
   誰でもわたしについて来たいなら・・・自分を捨て・・・

   自分の命を救おうとするものはそれを失い

   自分の命を捨てるものはそれを救う

   この中のそれとはなんでしょうか、本来の自分

   本来の自分のあるべき姿というような意味ではないかと

   思います、私たちの中にもう一人の本来の自分がいて

   その命が輝くためには、自分中心ではだめですよ

   と教えてくださっているような気がします

   また、本来のあるべき姿になるために
  
   ひとは試練と言う道があって、その道を通過しないと

   本来のあるべき姿の自分になることが出来ない

   のではないか・・・イエス様が歩まれた十字架の道

   を歩むことが、本来の自分を取り戻せる

   ただひとつの方法である、光に包まれた十字架の道

   に多くの不思議な秘密が隠されているからだ

   ただ、それは命の門でそれを見出すひとは少ない