礼拝
ルカの福音書6章1節〜19節(分別を失う)
を摘んで食べていたことを、パリサイ人から
指摘され、安息日にしてはならないことを
なぜするのか?といわれた件でイエス様は
ダビデが神の家に入って、祭司以外の者は
だれも食べてはならないパンを食べたし
他の者にも与えたことを話して、安息日に
してよいのは、善を行うことなのか
悪を行うことなのか、命を救うことなのか
命を失うことなのか、どうですか
と尋ねられてから、手のなえた人を
お癒しになった、すると彼らはすっかり
分別を失って、イエスをどうしてやろうか
と話し合った、イエス様はさらに祈りを重ね
弟子たちの中の12人を選び、彼らに使徒という
名前を与えられた、なをもイエス様の周り
には大勢の人が集まって、大きな力が
イエス様から出てすべての人を癒した
***心正しくない人の前で真理がなされると
分別を失ってしまうものなんだなという
ことがわかる、深く言えば正しくないのに
それに気がついていない、傲慢の霊がある人
はなにが正しくて、なにが間違っている
かの基準となる物差しがずれていて、
分別を失ってしまう
正しくなくても、それに気がついて
自分を変えたいと思っている人は
このものさしはずれていないので
分別を失うことは少ないのではないかと
思う、いつも人ではなく自分の心の
物差しを見つめて、分別を失っていないか
見つめるべき、であると私は思う