礼拝

ekureshia2005-07-24

ルカの福音書6章1節〜19節(分別を失う)

いなっある安息日の日に、イエス様の弟子が麦の穂

を摘んで食べていたことを、パリサイ人から

指摘され、安息日にしてはならないことを

なぜするのか?といわれた件でイエス様は

ダビデが神の家に入って、祭司以外の者は

だれも食べてはならないパンを食べたし

他の者にも与えたことを話して、安息日

してよいのは、善を行うことなのか

悪を行うことなのか、命を救うことなのか

命を失うことなのか、どうですか

と尋ねられてから、手のなえた人を

お癒しになった、すると彼らはすっかり

分別を失って、イエスをどうしてやろうか

と話し合った、イエス様はさらに祈りを重ね

弟子たちの中の12人を選び、彼らに使徒という

名前を与えられた、なをもイエス様の周り

には大勢の人が集まって、大きな力が

エス様から出てすべての人を癒した

***心正しくない人の前で真理がなされると

分別を失ってしまうものなんだなという

ことがわかる、深く言えば正しくないのに

それに気がついていない、傲慢の霊がある人

はなにが正しくて、なにが間違っている

かの基準となる物差しがずれていて、

分別を失ってしまう

正しくなくても、それに気がついて

自分を変えたいと思っている人は

このものさしはずれていないので

分別を失うことは少ないのではないかと

思う、いつも人ではなく自分の心の

物差しを見つめて、分別を失っていないか

見つめるべき、であると私は思う