礼拝

ローマ人への手紙9章1節〜16節(心の中)

私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人の

ために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。彼らはイスラエル人で

す。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼

らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえに

ほめたたえられる神です。アーメン。しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラ

エルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく

、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもで

はなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして

、サラは男の子を産みます。」このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのことも

あります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行

ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしは

ヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があ

るのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつ

くしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくだ

さる神によるのです。


***神様は心の中をいつも見ています。どんなに人々に愛され、人気がある人でも、神様から愛されているとは

   限りません。また、人から嫌われ、行ないが正しくない人でも、神様から愛されている人がいます。どこが

   ちがうのでしょうか。前者は神様を求めず、栄光を自分のものとし、者は神に助けを求め、そんなだめな自分

   を変えたいと悩み苦しみ、もだえているからです。

   らです。