礼拝

ローマ人への手紙3章19節〜31節(環境の壁)

さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていること

を知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためで

す。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないから

です。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に

、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス

・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何

の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ

ず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認めら

れるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え

物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは

、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今

の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信

じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょ

うか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理

によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは

、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも

、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに

神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を

信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めて

くださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょ

うか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。


***今、自分がこのパウロの話しを聞く初めてのユダヤ人だという設定で、聞く時、

   今まで聞いたことのないことばに戸惑い、おかしい、間違っている、という判断を

   しないだろうか・・・を考えながら読むように・・・と神は言われます。聞きなれない

   ことばであっても、初めて聞くことばであっても、、心柔軟に真理を見抜く者である

   ように・・・と神は言われます。