■
マタイの福音書21章33節〜42節(神様について)
もうひとつのたとえを聞きなさい。ひとりの家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣を巡らし、
その中に酒ぶねを堀り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅にでかけた。さて、収穫の
時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わ
した。すると農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは
殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わ
したが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬っ
てくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し
合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れよ
うではないか。』そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあ
あい、ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言
った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める
別の農夫たちに貸すに違いありません。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは次の聖書の
ことばのことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石
になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。』だからわたしは
あなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられ
ます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉
みじんに飛ばしてしまいます。」祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞
いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。それでイエスを捕らえようとした
が、群衆を恐れた。ぐんしゅうはイエスを預言者と認めたからである。
***今日は神様について深く考えて見たいと思います。人間は自分たちの買ってな解釈で神様
を作り上げ、利用しようとしている。自分たちにとって利益に繋がることを、都合のいい
ことをしてくれたとき、神様はいる、と思い、自分たちの言い分が通らないとき、不利益
が生じたら、神様なんかいないと言う。都合のいいように神様を作り上げてしまう。その
心の間違いを正さなければ本当の意味で神様を知ることは出来ないと、、私は思います。