礼拝

ekureshia2006-12-10

ヨハネ福音書10章1節〜21節(羊の門)


まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から

はいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために

開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで

連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って

行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

しかし、ほかの人には決してついていきません。かえって、その人から

逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。イエスはこの

たとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが

何のことかよくわからなかった。そこでイエスはまた言われた。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。

わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを

聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って

はいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけの

ためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに

持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを

捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は狼が来るのを

見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで狼は羊を奪い、

また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけて

いないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを

知っています。またわたしのものは、わたしを知っています。それは

父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。

また、わたしは羊のためにわたしもいのちを捨てます。わたしにはまた、

この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければ

なりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者と

なるのです。わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを

捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも自分のいのち

を取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。

わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。

わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。

彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。

どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」

ほかの者は言った。「これは悪霊につかれている者の言葉ではない。

悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」


***今日は羊の門というテーマです・・・これはたとえですが羊が私たちで

   門がイエス様です。同じイエス様の言葉をどうしてわかる人と、わからない

   人に分かれるのでしょうか・・・この聖書に触れているとどうも、心の中に

   憎しみ、ねたみ、があるとき、真理の言葉は届かないように思えてなりません

   悲しみ、苦しみ、は自分の内側で対象が相手ではないから、真理の言葉は

   栄養剤となって、悲しみ、苦しみが喜びに変わることもあるでしょう。

   イエス様は私たちの門番の役目で、いつも私たちを守ってくれる。

   真理の言葉を心の状態が悪いことで、妨げてしまうことがないように

   心がけたいものですね。