礼拝

ekureshia2006-08-20

ヨハネ福音書5章1節〜16節(安息日の主)

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスエルサレム

上られた。さて、エルサレムには羊の門の近くにヘブル語で

べテスタと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えたものが

伏せっていた。そこに38年もの間、病気にかかっている人がいた

エスは彼が伏せっているのを見、それが長い間のことを知って

彼に言われた。「よくなりたいか。」

病人は答えた。(主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に

私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が

先に下りて行くのです。)

エスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

するとその人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

ところがその日は安息日であった。

そこでユダ他人たちは、そのいやされた人に言った。

〔今日は安息日だ。床を取り上げてはいけない〕

しかし、その人は彼らに答えた。(私を直してくださったかたが

『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。)

彼らは尋ねた。〔『取り上げて歩け。』と言った人は誰だ。〕

しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。

人が大勢そこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

そののち、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。

「見なさい。あなたは良くなった。もう罪をおかしてはなりません。

そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」

その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方は

エスだと告げた。このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。

エス安息日にこのようなことをしておられたからである


***私たちクリスチャンは神の言葉である聖書を裁きの道具

   にしているところがあるような気がして、とても反省材料

   になるところです。38年も病気の人が良くなったのに

   喜んであげられない冷えた心・・・病気の本人も罪を重ね

   回りの人からの恨み、ねたみの間柄であったのであろう

   と推察されますが・・・イエス様はその罪人を救うために

   来てくださった方です。私たちも愛の言葉、いやしの言葉で

   罪の根っこを溶かして上げられる、そんな人になれるよう

   心の成長を目指して歩みたいものですね