礼拝
上られた。さて、エルサレムには羊の門の近くにヘブル語で
べテスタと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えたものが
伏せっていた。そこに38年もの間、病気にかかっている人がいた
イエスは彼が伏せっているのを見、それが長い間のことを知って
彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。(主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に
私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が
先に下りて行くのです。)
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
するとその人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところがその日は安息日であった。
そこでユダ他人たちは、そのいやされた人に言った。
〔今日は安息日だ。床を取り上げてはいけない〕
しかし、その人は彼らに答えた。(私を直してくださったかたが
『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。)
彼らは尋ねた。〔『取り上げて歩け。』と言った人は誰だ。〕
しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。
人が大勢そこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
そののち、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
「見なさい。あなたは良くなった。もう罪をおかしてはなりません。
そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方は
イエスだと告げた。このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。
***私たちクリスチャンは神の言葉である聖書を裁きの道具
にしているところがあるような気がして、とても反省材料
になるところです。38年も病気の人が良くなったのに
喜んであげられない冷えた心・・・病気の本人も罪を重ね
回りの人からの恨み、ねたみの間柄であったのであろう
と推察されますが・・・イエス様はその罪人を救うために
来てくださった方です。私たちも愛の言葉、いやしの言葉で
罪の根っこを溶かして上げられる、そんな人になれるよう
心の成長を目指して歩みたいものですね