礼拝
ともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
そこには水が多かったからである。人々は次々にやってきて、
いなかったからである。−−−
それでヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。
彼らはヨハネのところに来ていった。「先生、みてください。ヨルダンの
向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさった方が、
バプテスマを授けておられます。そしてみなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネは答えて言った。「人は天から与えられるものでなければ、
なにも受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく
、その前に遣わされたものである。』と私が言ったことの証人です。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿の声を聞いて大いに
喜びます。それで私もその喜びで満たされているのです。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地からでるものは地に
属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上に
おられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、
だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、
神は真実であるということに確認の印を押したのである。
神がお遣わしになった方は神のことばを話される。神が御霊を
無限に与えられるからである。
神は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は
、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
***天地万物のすべてが天から与えられるものであることを
悟る時、人がいかに力を入れて無意味なことに動力を
注いできたか・・・を知るのではないだろうか・・・
自己中心という思いの空間が、真理の物差しをゆがめて
人は争いになったり、ねたみ、やっかみ、の心が
生じる。ヨハネは真理の物差しが正しかったので
自分よりもイエス様のほうに人々が傾いていく時
ヨハネ自身もそれを望み、誤解する人々には真理を
伝えた。今の私たちも天から与えられる恵みで
感謝の毎日を過ごすようになりたいものです。