礼拝

ekureshia2006-07-23

ヨハネ福音書3章22節〜36節(天から与えられたもの)

その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らと

ともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。

そこには水が多かったからである。人々は次々にやってきて、

バプテスマを受けていた。−−−ヨハネはまだ投獄されて

いなかったからである。−−−

それでヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。

彼らはヨハネのところに来ていった。「先生、みてください。ヨルダンの

向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさった方が、

バプテスマを授けておられます。そしてみなあの方のほうへ行きます。」

ヨハネは答えて言った。「人は天から与えられるものでなければ、

なにも受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく

、その前に遣わされたものである。』と私が言ったことの証人です。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿の声を聞いて大いに

喜びます。それで私もその喜びで満たされているのです。

あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

上から来る方は、すべてのものの上におられ、地からでるものは地に

属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上に

おられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、

だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、

神は真実であるということに確認の印を押したのである。

神がお遣わしになった方は神のことばを話される。神が御霊を

無限に与えられるからである。

神は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は

、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。



***天地万物のすべてが天から与えられるものであることを

   悟る時、人がいかに力を入れて無意味なことに動力を

   注いできたか・・・を知るのではないだろうか・・・

   自己中心という思いの空間が、真理の物差しをゆがめて

   人は争いになったり、ねたみ、やっかみ、の心が

   生じる。ヨハネは真理の物差しが正しかったので

   自分よりもイエス様のほうに人々が傾いていく時

   ヨハネ自身もそれを望み、誤解する人々には真理を

   伝えた。今の私たちも天から与えられる恵みで

   感謝の毎日を過ごすようになりたいものです。