礼拝
イエス様が目を上げてごらんになると、金持ちたちが
貧しい一人暮らしの女性が、そこにレプタ銅貨二つ(生活費
の全部)を投げ入れているのをごらんになり、
それでイエス様は言われました。〔わたしは真実をあなたがたに
告げます。この貧しい女性は、どの人よりもたくさん
投げ入れました。みんなは、あり余る中から献金を
投げ入れたのに、この女性は乏しい中から、持っていた
生活費の全部を投げ入れたからです。
***昔から聖書の中に得た収入の十分の一を捧げるように
という箇所があり、その教えに従って神様を信じる
人たちが親から子へ、孫へと語り継がれてそのこと
も守られてきている中で、この金持ちの人たちは
あり余る中からの献金を投げ入れて、自負していたのでは
ないか、と思われるがこの貧しい女性は生活費の全部を
捧げたということを強調しています。
もしかして、この金持ちの人が今の現在に置き換えて
100万の月収もらっていたとして、投げ入れた献金が
5万であったら、十分の一から遠いものとして神様は
その人の心に従って自然の摂理の中で、この人のマイナス
分を、違う形でとられてしまうようになるだけ・・・
神様が取るのではなくて、節理の中のプラマイで
自然界の中の大型コンピューターが自動的に作動している
様なものだと、私は思う
しかし人々から見るとすごいたくさんの献金をして・・・
と尊敬の目が注がれる。つまりいつの間にか神様に
感謝して捧げるはずの献金が、人々に見せるための
ものに変わってしまっている。
以前阪神大震災があった1月17日のことが脳裏に浮かぶ
給料日前の一週間の時、生活費の全部を被災地のために
送って、財布の中はゼロだったにも関わらず
すごい奇跡が起こって一週間の生活が守られた
ということを思い出した。神様は真実なお方です
この聖書の中の女性も生活費の全部を捧げたとありますが
その後のこの方の生活は祝福されたことでしょう
でもひとつ、いろんな宗教が今の時代はびこって
宗教団体自体が、金儲けに走っているところもあるので
見極める必要があると思います