礼拝

ekureshia2006-04-02

ルカの福音書20章20節〜47(言葉のわな)

律法学者や祭司長は義人を装った間者を送り

エスの言葉を取り上げて、総督の支配と権威に引き渡そうと

チャンスをねらっていまいた。その間者たちがイエス様に

質問します。『先生。私たちはあなたがお話になり、お教えに

なることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に

基づいて神の道を教えておられることを知っています

ところで、私たちがカイザルに税金を納めることは、律法に

かなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。

エス様はそのたくらみを見抜いて言われました。(デナリ銀貨を

わたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか)

彼らは『カイザルのです』と言うと、彼らに(ではカイザルの

ものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい)

彼らは民衆の前で、イエス様のことばじりをつかむことができず

お答えに驚嘆して黙ってしまいます。ところが復活を否定する

サドカイ人のある者たちが、イエス様のところに来て質問します

『先生、モーセは「もしある人の兄が妻をめとって死に、しかも子ども

がなかったばあいは、その弟はその女を妻にして、兄のための子を

もうけなければならない」と私たちのために書いてくれています

ところで、7人の兄弟がいて、長男は妻をめとりましたが

こどもがいなくて死にました。次男も三男もその女をめとり、7人

とも同じようにして、こどもを残さずに死にました。あとでその

女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか』

エス様は彼らに答えます。(この世の子らはめとったり、とついだり

するが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのに

ふさわしい、と認められている人たちは、めとることも、とつぐこと

もありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは

御使いのようであり、復活の子として神の子どもだからです。それに

死人がよみがえることについては、モーセも柴の箇所で、主を「アブラハム

の神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、このことを示しました。

神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは

、神に対してはみなが生きているからです」

律法学者のある者たちが答えて『先生、りっぱなお答えです』

と言いました。彼らはもうそれ以上なにも質問する勇気がありません

でした。するとイエス様が彼らに言われます

(どうして人々はキリストをダビデの子と言うのですか

ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています「主は私の主に言われた

わたしがあなたの敵をあなたの足台とする時までわたしの右の座に

着いていなさい」

こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうして

キリストがダビデの子でしょう)

またイエス様は弟子たちにお話されました

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって

歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、

また会場の上席や、宴会の上座が好きです。またやもめの

家を食いつぶし、みえを飾るために長いお祈りをします

こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです


***今日の箇所はことばのわなで、イエス様をはめようという

   箇所です、でもイエス様はその心をも読み取って、完璧な

   答えを出してきます、と同時に癒しになるような言葉でも

   あるから、人々はなにもそれ以上語ることができません

   今の世の中にも、言葉のわなのような言葉があっちこっち

   に飛び交っていると思いますが、それを見抜いて、逆に

   癒しの言葉を投げかけてあげられるような、そんな器に

   なりたいな・・・