礼拝

第2コリント8章14節〜24節(信仰の畑)

今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです

。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなか

った。」と書いてあるとおりです。私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくだ

さった神に感謝します。彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところ

に行こうとしています。また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働

きによって、すべての教会で称賛されていますが、そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている

私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のた

め、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも

非難されることがないように心がけています。それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを

示そうと考えているからです。また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が

多くのことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を

寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労

者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。ですから、あなたがたの愛と

、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。


***パウロたちは信仰の畑を耕し、種をまき、水や、栄養を 補給し、成長に応じて、間引きや、切込みを

   入れ、収穫するのです。連携作業にて完成します。特にパウロの愛のことばは栄養となって、多くの

   人の心が成長していったのです。

礼拝

コリント第二の手紙8章1節〜13節(平等)

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ

出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にさ

さげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待

以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。それで私た

ちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧め

たのです。あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私

たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。こ

うは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を

確かめたいのです。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでお

られたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者

となるためです。 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからで

す。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行なっただけでなく、このことを他に先んじて願った人た

ちです。ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げ

ることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それ

は受納されるのです。私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしている

のではなく、平等を図っているのです。今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなた

がたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集

めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、

テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進ん

であなたがたのところに行こうとしています。また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。こ

の人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに

携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の

栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。私たちは、この献金の取り扱いについて、だれか

らも非難されることがないように心がけています。それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを

示そうと考えているからです。また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が多く

のことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ま

すます熱心になっています。テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労者です。兄弟

たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。ですから、あなたがたの愛と、私たちがあなた

がたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。


***平等というテーマで、神様が私たちになにを伝えようとしているかを、学んでいきましょう。ヒントは献金

   です。

礼拝

コリント第二の手紙7章1節〜16節(愛のことば)

愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分を

きよめ、神を恐れかしこんできよきを全うしようではありませんか。私たちに対して心を開いてください

。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼっ

たことがありません。責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私

たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。私のあなたがたに対する信頼

は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの

中にあっても喜びに満ちあふれています。マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく

、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めて

くださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。ただテトスが来たことばか

りでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕

っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私は

ますます喜びにあふれました。あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いてい

ません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今

は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あな

たがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみここ

ろに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらしま

す。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせ

たことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。

あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。ですから

、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行なった人のためでもなく、その被害者のためでも

なくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。こういう

わけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっ

そう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。私はテトスに

、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私た

ちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったか

らです。彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い

出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることがで

きるのを喜んでいます。


***パウロのことばには愛があふれています。ことばのひとつひとつに思いやりと愛の深さを感じます。

   私たちもことばのキャッチボールをするとき、愛の心で、人を思いやり、慰め、励まし、戒め、愛の

   ことばの深さを学んでいきたいものですね・・・

礼拝

コリント人への第2の手紙6章1節〜18節(心を鍛える)

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時

、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないよう

にと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、

苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手

に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすること

によって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり

、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、

殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないよう

でも、すべてのものを持っています。コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。

私たちの心は広く開かれています。あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分

を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心

を広くしてください。不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんな

つながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和

があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょ

」う。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたし

は彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言わ

れる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの

父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」


***いつも心を鍛えて惑わしに振り回されないようにしましょう。心が弱いと、惑わされても気が付かず、

   心の落とし穴に落ち込み、沈み、這い上がることさえ、できなくなってしまうかもしれません。優先順位

   を間違わずに、神様とともに歩んでいきましょう。

礼拝

コリント人への第2の手紙5章1節〜21節(キリストの愛)

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。

それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与え

られる住まいを着たいと望んでいます。 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたい

と思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいの

ちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その

保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体

にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではな

く、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみも

とにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私

たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に

現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです

。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私た

ちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです

。私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇

る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるよ

うにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であ

るとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるか

らです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだの

です。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにでは

なく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間

的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもう

そのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古

いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです

。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいまし

た。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせな

いで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです

。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがた

に願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


***キリストの愛が私たちに注がれるとき、その愛を一新に受け取ることができるよう、常に霊の目を

   開き、霊の耳を研ぎ澄ませ、この世の偽善者たちの惑わしに惑わされることのないように、生活して

   いきたいものですね・・・

礼拝

コリント人への第2の手紙4章1節〜18節(光の川)

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を

失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明

らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの

福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かってい

るのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリスト

の栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝え

るのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あ

なたがたに仕えるしもべなのです。「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私た

ちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私

たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のもの

であって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方か

ら苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはあ

りません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません

。 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身にお

いて明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されて

いますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためな

のです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。「私

は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私た

ちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイ

エスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知ってい

るからです。すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に

及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気

を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今

の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからで

す。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時

的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 ]

***神様は私たちに光の川を用意してくださっています。でも、その川を理解し、渡る人は

   少ないのです

礼拝

コリントへの第2の手紙3章1節〜18節(御霊によって生きる)

私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、

あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知ら

れ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨に

よってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた

ものであることが明らかだからです。私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を

持っています。何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありま

せん。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を

下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすか

らです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消

え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほど

だとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務め

に栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。 そして、かつて

栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになってい

るからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄

光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。そ

して、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを

掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。という

のは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取り

のけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。か

えって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かって

いるのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。

そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけら

れて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変え

られて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


***私たちクリスチャンは主の御霊による自由があり、平和があります。御霊に使える喜びを

、より多くの人々に伝えていきましょう。